緑色の皮を指先で撫でると、ひんやりとした感触が心地よい。
山野ほのかは、毎日のようにスーパーでアボカドを手に取る。
肩まである黒髪をひとつにまとめ、エコバッグを片手に歩く姿は、周囲から見ればごく普通の会社員。
けれど、彼女には誰にも話していない秘密があった。
アボカドに声をかけられるのだ。
最初に気づいたのは三年前。
新卒で入社した会社の帰り道、ふらりと立ち寄った小さな八百屋で、並んでいるアボカドのひとつが、まるで囁くように語りかけてきた。
「ぼくを選んで」
一瞬、疲れているのかと思った。
けれど、翌日も別のアボカドが「食べごろだよ」と声をかけてきた。
怖いとは思わなかった。
不思議と、その声はやさしくて、どこか懐かしかった。
以来、ほのかは毎日アボカドを買い続けた。
スーパー、八百屋、時には産地直送の通販サイト。
声のするものだけを選んで、家に持ち帰る。
アボカドはほのかにとって、特別な存在になっていた。
一人暮らしのワンルーム。
白いテーブルの上には常に数個のアボカドが並ぶ。
食事はもちろんアボカド中心。
トーストに潰して乗せる日もあれば、パスタに絡めることもある。
何より好きなのは、スプーンですくって塩とオリーブオイルをかけるシンプルな食べ方だった。
声のするアボカドは、不思議なことにどれも絶妙なタイミングで食べごろになる。
硬すぎず、柔らかすぎず、口に入れた瞬間に広がるクリーミーな味わい。
毎日、そんな風にアボカドに囲まれて暮らすうちに、ほのかの生活は少しずつ変わっていった。
以前は仕事が終わるとすぐに帰宅し、テレビをぼんやり眺めるだけだった。
けれど、アボカドと暮らし始めてから、料理の楽しさを知り、休日にはアボカド料理をSNSに投稿するようになった。
コメントには「おしゃれ」「美味しそう」の声が並び、気づけばフォロワーも増えていった。
ある日、ひときわ美しいアボカドに声をかけられた。
「あなたに伝えたいことがあるの」
ほのかは思わず耳を近づけた。
「アボカドがこんなにもあなたを呼ぶのは、理由があるんだよ」
その声は、これまでのどのアボカドよりもはっきりしていた。
どこか母親の声に似ている気もした。
幼い頃、母がよくアボカドを潰して、ほのかのトーストに塗ってくれた。
あの味は今でも舌に残っている。
「あなたのお母さんはアボカド農園で育ったの」
それは初めて知る事実だった。
母は料理好きだったが、故郷のことを語ることはほとんどなかった。
気になって、母の古い手帳を引っ張り出してみると、そこには幼いほのかと母が並んでアボカドを食べる写真が貼ってあった。
裏には小さく「ほのかとアボカド」とだけ書かれていた。
あの日以来、ほのかにアボカドの声が聞こえるようになった理由が、少しだけわかった気がした。
翌日、ほのかは有給を取り、新幹線に乗った。
目指すのは母の故郷。
調べてみると、小さな町に今もアボカド農園がいくつか残っていた。
駅からバスに揺られ、緑が広がる山間部へ入ると、ふと懐かしい香りが鼻をくすぐった。
土とアボカドが混ざり合った、少し青臭い香り。
農園の門をくぐると、年配の女性が笑顔で迎えてくれた。
母の旧姓を伝えると、女性の目が丸くなった。
「お母さん、ここでよく木に登って遊んでいたわよ」
そう言って、母が子どもの頃に登っていたという古いアボカドの木を案内してくれた。
そこには、無数の実が枝にぶら下がっていて、まるでほのかを歓迎するように揺れていた。
その夜、宿に戻ってから食べたアボカドは、今までで一番優しい味がした。
母が昔食べたアボカドも、きっとこんな味だったのだろう。
東京に戻ったほのかの部屋には、これまでと変わらずアボカドが並ぶ。
ただ、ひとつだけ違うのは、アボカドの声が以前よりも穏やかになったこと。
「おかえり」
「今日はどんな料理にする?」
声のするアボカドと暮らす日々は、これからも続く。
ほのかはアボカドを抱きしめるようにして微笑んだ。