月が転がる夜の追いかけっこ

面白い

月が転がる夜は、たいてい誰にも見つからないところから始まる。

その夜、ぼくはいつもの帰り道で、靴の先に何か丸いものをぶつけた。
コツン、と乾いた音がして、足元に目をやると、それは白くて、やわらかく光る球だった。

「……え?」

見上げると、空には月がない。

代わりに、足元のそれが、ほんのりと息をするみたいに明るくなったり、暗くなったりしていた。

「うそだろ」

思わずそうつぶやいた瞬間、球――たぶん月は、ころん、と転がりだした。

「ちょ、待て!」

反射的に追いかける。
月は舗道の継ぎ目を越え、坂を下り、まるで逃げるみたいに速度を上げていく。
追いつきそうになると、するりと避けるように方向を変える。

「逃げるなよ、戻らなきゃだろ!」

返事はない。
けれど、月はちょっとだけ転がる速さをゆるめた。
まるで、ぼくの声を聞いているみたいに。

街灯のない路地に入ると、月の光だけが道を照らした。
影がふたつ伸びる。
ひとつはぼく、もうひとつは、転がる月の小さな影。

ふと、月が止まった。

息を切らしながら追いつくと、月は路地の奥、古いブランコのある小さな公園の前で、静かに光っていた。

「……ここがいいのか?」

月は答えない。ただ、やさしく明るくなる。

公園のブランコは、風もないのに、きしりと揺れていた。
ぼくは月をそっと持ち上げてみる。
驚くほど軽い。
冷たくも熱くもなく、ただ、なつかしい温度がした。

「おまえ、落ちてきたのか?」

そう聞くと、月の表面がかすかにゆらいだ。
水面みたいに。

そのとき、ブランコに誰かが座っていることに気づいた。

小さな女の子だった。
足をぶらぶらさせながら、こちらを見ている。

「それ、ひろったの?」

「……ああ。これ、月だと思うんだけど」

「うん、月だよ」

あまりにもあっさり言うので、ぼくは言葉を失った。

「ときどき、転がるの」

「ときどき?」

「さびしい夜にね」

女の子はそう言って、ブランコを止めた。

「空にいると、遠すぎるから」

ぼくは手の中の月を見る。
たしかに、どこか寂しそうに光っている気がした。

「じゃあ、戻さなきゃだろ」

「ううん」

女の子は首を振る。

「追いかけてくれる人がいるときだけ、転がるの」

その言葉に、胸が少しだけ痛くなる。

「だから、もう少し、このままでいいよ」

ぼくは月を抱えたまま、公園のベンチに座った。
女の子はまたブランコに乗り、ゆっくり揺れはじめる。

時間が、少しだけやわらかくなった気がした。

やがて、月がすこしずつ軽くなっていくのがわかった。
光が、ふわりと浮かび上がる。

「……帰るのか」

ぼくがつぶやくと、女の子はうなずいた。

「うん。もう、だいじょうぶみたい」

月はぼくの手からするりと抜けて、空へと転がるように上がっていく。
さっきまでとは逆に、ゆっくりと、でも確実に。

気づけば、夜空に、ちゃんと月が戻っていた。

あたりは少しだけ明るくなり、公園も、路地も、いつもの夜に戻る。

隣を見ると、女の子はいなかった。
ブランコだけが、きしり、と小さく揺れている。

ぼくはしばらくその場に立ち尽くしてから、帰り道を歩き出した。

足元を見ながら、ふと思う。

また月が転がる夜が来たら、そのときも追いかけられるだろうか、と。

そのときは、もう少し長く、いっしょにいられるだろうか、と。

空を見上げると、月は何事もなかったみたいに、遠くで静かに光っていた。

でも、ほんの少しだけ――さっきよりも、近くに見えた気がした。