古びたアパートの一室で、神崎美咲は今日も鏡に向かって微笑んでいた。
手作りのティアラを頭に乗せ、目を閉じる。
金の刺繍が施されたドレスを纏う自分を想像しながら、息を吸う。
舞踏会のシャンデリアの輝き、群がる貴族たちの拍手喝采。
すべては想像の世界。
それでも、美咲にとってティアラは特別な存在だった。
「プリンセスになれる魔法の冠」
子どもの頃、母がそう言ってくれた。
宝石店のショーウィンドウに並ぶティアラを見上げた幼い美咲は、目を輝かせて「いつかきっと私もあれをかぶるの」と言った。
そのときの母の笑顔が忘れられない。
けれど、現実は魔法なんて持っていなかった。
美咲は小さなアパレルショップの店員だ。
トレンドに敏感な若い女の子たちを相手に、笑顔を張り付け、次々と服を勧める。
ショップのディスプレイを着飾るマネキンは、どれもティアラとは無縁のカジュアルスタイル。
スニーカー、デニム、シンプルなTシャツ。
それが「売れるもの」だった。
店が終わると、美咲は静かに帰宅する。帰り道にある古いアンティークショップ。
その店先には、埃をかぶった銀のティアラが置かれていた。
いつも横目で眺めるだけ。
値札を見る勇気はない。
それでも、通るたびに心が小さく躍った。
「お姫様にはなれなくても、ティアラくらいは……」
部屋に戻ると、テーブルの上には自作のティアラが並んでいる。
ワイヤーにビーズを通したもの、折り紙で作ったもの、紙粘土を削って色を塗ったもの。
どれも不格好で、どれも美咲の宝物だった。
週に一度、彼女には特別な時間があった。
日曜の夜、古いドレスを纏い、鏡の前に立つ。
手作りのティアラを頭に乗せ、想像の舞踏会へと旅立つ。
鏡の向こうには、誰も知らないプリンセスが微笑んでいる。
けれど、ある日、その時間を奪うような出来事が起きた。
「来月、結婚式に出るんだけどさ、ドレス選びに付き合ってくれない?」
職場の先輩、真紀がそう声をかけてきた。
美咲は笑顔で頷いた。
ウエディングドレスショップは、まるで夢のような空間だった。
真っ白なレース、繊細な刺繍、輝くティアラ。
次々と試着する真紀を見ながら、美咲は息を飲んだ。
「これが……本物のティアラ……」
ガラスケースに並ぶティアラは、ひとつひとつが芸術作品だった。
ダイヤモンドの煌めき、サファイアの青、パールの柔らかい光。
美咲の手作りのものとは、比べものにならないほど美しかった。
「ねえ、美咲ちゃんもつけてみなよ!」
冗談めかして真紀が差し出したティアラ。
美咲は慌てて手を振った。
「私はいいです!」でも、真紀は「せっかくだから!」と無理やり美咲の髪に乗せた。
鏡の中の自分が、一瞬わからなかった。
輝くティアラを戴いた自分。
子どもの頃に夢見た姿が、そこにあった。
なのに、なぜか胸の奥が痛んだ。
帰り道、美咲はアンティークショップに立ち寄った。
ずっと見つめていた銀のティアラは、誰かに買われたのか、もうそこにはなかった。
がっかりした反面、なぜかほっとしている自分がいた。
家に帰ると、美咲はいつものように自作のティアラを手に取った。
歪んだビーズが光を反射する。指でなぞると、胸が温かくなった。
本物のティアラは、美しかった。
けれど、美咲にとって本当に大切なのは、この不格好なティアラたちだった。
自分の手で作り、自分のために作った唯一無二の冠。
誰かに選ばれるためじゃなく、自分自身のためのティアラ。
日曜の夜。
いつものドレスを纏い、鏡の前に立つ。
「今夜もよろしくね。」
頭に乗せるのは、手作りの硝子のティアラ。
ビーズのひとつひとつに、美咲の時間が染み込んでいる。
鏡の向こうのプリンセスは、不格好なティアラを誇らしげに輝かせる。
「私は、私だけのプリンセス。」
そうつぶやいたとき、鏡の向こうで確かにティアラが煌めいた気がした。