幼い頃、蓮(れん)は初めてサーカスを見た。
町にやってきた巡業サーカス。
テントの中に広がる夢のような世界。
空中ブランコを飛ぶ人、火を吹く男、奇跡のように体を折り曲げる女性。
動物たちもにこやかに芸を披露し、ピエロたちが笑いを誘う。
蓮は目を輝かせた。あの光景が胸に焼きついた。
それ以来、サーカスが好きで好きで仕方なかった。
学校で先生に「将来の夢」を聞かれた時、蓮は「サーカス団に入ること」と迷わず答えた。
けれど教室の空気は凍りつき、数秒後に誰かが笑い、やがてクラス全体が笑い声で包まれた。
「そんなの無理だよ!」
「サーカスって昭和か!」
「学校もまともに通えないくせに!」
笑い声と軽蔑の目。
蓮は俯いた。
けれど、その夜ベッドに横たわると、目を閉じた暗闇に浮かぶのは、やはりあのサーカスの光だった。
回るスポットライト、鳴り響くブラスバンド、観客の喝采。
胸が高鳴る。
蓮にとって、サーカスは逃げ場でもあり、救いでもあった。
中学に上がっても蓮のサーカス熱は消えなかった。
放課後、誰もいない校庭で一人、ジャグリングの練習をした。
見よう見まねでボールを投げ、何度も失敗しながら、いつの間にか三つのボールを操れるようになっていた。
YouTubeで海外サーカスの映像を見て、夜遅くまでメモを取った。
身体の使い方、笑いの作り方、観客の目線の集め方——。
誰にも言えない密かな努力。
そんなある日、町に再びあの巡業サーカスがやってきた。
あの日と同じ大きなテント、風にはためく旗。
蓮はチケットを握りしめ、震える手でテントの中に入った。
照明が落ち、始まるショー。
空中ブランコが舞う。
火吹き男が歓声を浴びる。
会場の子どもたちが声を上げる。
そんな中、蓮の目に留まったのは、舞台袖に立つひとりの若いピエロだった。
他のピエロより動きがぎこちなく、化粧も少し崩れている。
でも、その目だけは真剣だった。
失敗しても、転んでも、立ち上がるたびに、ピエロは無理やり笑顔を作る。
会場の隅の子どもに手を振る。
蓮は目を離せなかった。
「頑張れ……」
誰にも聞こえない声で、蓮は呟いた。
ショーが終わった後、蓮は意を決してスタッフ用の出入口に回った。
暗がりに佇んでいたのは、あの若いピエロだった。
蓮は思わず声をかける。
「すごかったです……!」
ピエロは驚いた顔をしたが、すぐに照れくさそうに笑った。
「ありがとう。でも全然ダメだったよ。」
「そんなことないです!僕、ずっとサーカスが好きで……僕もサーカス団に入りたくて……」
蓮は堰を切ったように思いを話した。
誰にも言えなかった本当の夢。
自分でも恥ずかしくて飲み込んでいた憧れを、初めて誰かに話した。
ピエロは黙って聞いていたが、最後に「だったら、やってみなよ」と言った。
「やってみてもダメなら、また考えればいい。でもサーカスは、好きって気持ちが一番大事だから。」
ピエロはマスクを外した。
そこには、蓮より少し年上くらいの青年がいた。
汗で崩れた化粧の奥の目は、どこか蓮と似ていた。
迷いや不安、それでも諦めたくないという強い光。
「サーカスはさ、夢を見せる仕事だけど、やってる本人が夢を持ってなきゃ続かないんだ。」
その言葉が、蓮の胸に深く刺さった。
帰り道、蓮は夜空を見上げた。
テントの上に瞬く星が、まるで舞台のスポットライトのように見えた。
それから、蓮は変わった。
学校では相変わらず浮いた存在だったが、放課後は町の公園や家の庭でひたすら練習した。
皿回し、ディアボロ、簡単なパントマイム。
町の文化祭で飛び入り参加してジャグリングを披露すると、小さな子どもたちが目を輝かせて拍手をくれた。
その拍手が、蓮の心に火を灯した。
やがて高校卒業を控えた春、あのサーカス団が再び町にやってきた。
蓮は思い切って団長に声をかけた。
あの時のピエロの紹介だ。
「見せてみな」
団長は腕を組んで蓮を見つめる。
蓮は震える手でボールを取り出し、ジャグリングを始めた。
失敗しても、また拾ってやり直す。
観客がいなくても、蓮は想像する。
あの満員のテント、子どもたちの歓声、夜空に咲くサーカスの花。
「……面白い。下手だけど、根性はある。」
団長はニヤリと笑った。
こうして、蓮のサーカス人生が始まった。
小さな町の片隅から、夜空に舞い上がる小さな夢の種。
サーカスが好きな少年は、やがて自らが夢を運ぶ存在になっていく。
今日もどこかの町で、蓮はボールを投げる。
回る光の中で、誰かの胸に、小さな夢の光を宿すために。