空に落ちていた忘れもの

面白い

空から、ことりと音がした。

最初は、雪のかけらが屋根を打ったのだと思った。
けれどそれは、二月の終わりにしてはあまりにやわらかい音だった。
私はベランダに出て、手すりの向こうをのぞきこむ。

落ちていたのは、青い封筒だった。

切手も宛名もない。
ただ、うすい雲の匂いがした。
拾いあげると、封はされていない。
中には、折りたたまれた便せんが一枚。

――拝啓 だれかへ。

それだけで、あとは真っ白だった。

「書き忘れ、かな」

つぶやいた瞬間、胸の奥で何かがひっかかった。
これは、書き忘れではなく、書けなかった手紙なのではないか。
空の上で、だれかが言えなかった言葉。
届かないまま、重さに耐えきれず落ちてきた。

その夜、私は便せんを机に広げた。
万年筆を持つ。
けれど、勝手に言葉を書き足してしまうのは違う気がした。
これは、私の手紙ではない。

翌日も、その翌日も、白いままだった。
けれど、三日目の朝、便せんの端に、うすいにじみが浮かんでいるのに気づいた。

「ごめんね」

と、読めるような気がした。

雨も降っていないのに、文字は少しずつ増えていった。
夜ごと、淡く。
まるで、空のどこかで書き続けている人がいるみたいに。

「本当は、あの日、引きとめたかった」
「あなたがいなくなる前に」
「さよならが、こわかった」

読み進めるたび、胸が痛んだ。
これはきっと、地上に残された誰かへ向けた手紙だ。
けれど、差出人の名前も、受取人の名前もない。

私は思いあたる人の顔をいくつも浮かべた。
去年、突然引っ越してしまった隣人。
もう二度と会えない友人。
言えなかった言葉を抱えたまま別れた人。

けれど、この手紙は、私のものでも、彼らのものでもない。
もっと大きくて、もっとささやかな、だれかとだれかのあいだの沈黙だ。

七日目の夜、最後の一文があらわれた。

「それでも、あなたが笑っているなら、わたしは空で待っている」

そこまで読んだとき、胸の奥でひっかかっていたものが、ほどけた。

空は、ときどき忘れものをするのだろう。
言えなかった言葉や、飲みこんだ涙や、間に合わなかった“さよなら”を、雲のポケットにしまいきれず、こぼしてしまう。

私は便せんをそっと封筒に戻した。
宛名のない手紙は、宛先を探している。

ベランダに出ると、夜空は澄んでいた。
札幌の冷たい星が、細く瞬いている。
私は封筒を胸にあて、目を閉じた。

「ちゃんと、届いてるよ」

だれにともなく、そう告げる。

次の瞬間、封筒はふわりと軽くなった。
手を離していないのに、重さだけが消える。
見れば、青はすこし薄れて、朝焼けの色に変わっている。

やがて、風が吹いた。

封筒は、私の指のあいだから、そっと抜ける。
落ちるのではなく、今度は上へ。
屋根を越え、電線を越え、星のあいだへ。

空は、忘れものを取りに来たのだ。

白い便せんは、もう真っ白ではない。
書けなかった言葉が、書かれたから。
たとえ名前がなくても、宛名がなくても、たしかに誰かの心へ届いたから。

私は冷えた手をこすりながら、部屋へ戻る。

机の上には、何もない。

けれど、不思議とさびしくはなかった。

空から落ちていた忘れものは、私にひとつだけ置いていったのだ。

言えなかった言葉も、いつか、どこかで書き終えられるという、小さな約束を。