夜が名前を忘れるとき、この町では人々の輪郭が少しだけ曖昧になる。
それは決まって、月が雲に隠れた深夜二時。
街灯の明かりが薄く伸び、影が自分の持ち主を見失い始める頃だ。
夜は、ひとつずつ名前を落としていく。
最初は呼び名。
次に肩書き。
最後に、自分でも大切だと思っていたはずの「私」という感覚。
私はその時間になると、川沿いのベンチに座る。
忘れられる側ではなく、忘れる側の夜を見届けるために。
昔、この町で名前をなくした人がいた。
彼女は朝になっても戻らなかった。
誰も彼女を思い出せず、写真も記録も、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
ただ川の水面だけが、彼女の笑い声を覚えていた。
「名前は重すぎるんだよ」
彼女が最後にそう言ったのを、なぜか私は覚えている。
名前は人を縛り、夜に溶けることを許さない。
だから夜は、静かにそれを剥がしていくのだ。
その夜、私の隣に座った青年も、自分の名前を思い出せずにいた。
焦る様子もなく、ただ星の少ない空を見上げている。
「なくなっても、案外平気ですね」
彼はそう言って笑った。
その笑顔が、少しずつ薄くなっていくのを私は見ていた。
夜が彼の名前を忘れ始めている証拠だった。
「朝になったら、戻りますか」
私が尋ねると、彼は首を振った。
「戻らなくてもいい気がする。誰にも呼ばれない場所で、ただ在るのも悪くない」
夜は容赦なく進み、やがて彼の輪郭は風景に溶けた。
残ったのは、ベンチの冷たさと、言葉にならなかった安堵だけ。
夜明け前、私は自分の名前を確かめる。
まだ残っている。
少し欠けているけれど、それでも私だ。
夜がすべての名前を忘れる日は来ない。
けれど、忘れられた分だけ、人は少し軽くなる。
だから私は今夜もここに座る。
夜が名前を忘れる瞬間を、忘れないために。


