氷の音が聞こえる

面白い

水野透(みずの・とおる)は、氷を愛していた。
ただの氷ではない。
山から湧き出る清水を丁寧に濾過し、時間をかけて凍らせた、透明な、澄みきった氷。

少年の頃、祖父の住んでいた信州の山荘で、透は初めて「きれいな氷」というものに触れた。
朝の空気の冷たさがまだ肌を刺すようだったころ、祖父が裏山から汲んできた清水を瓶に入れ、石室でじっくりと凍らせていたのだ。

それはまるで宝石だった。

白い霜も、濁りもない。
ただ透明な塊。光を受ければ、部屋の中に細やかな虹ができる。
掌に乗せると、じわじわと溶けながらも、まるで生きているかのようにきらめいた。

大人になった透は、東京のガラス工房で働いていた。
しかし休日になると、都心を離れて山に向かう。
氷をつくるためだ。
彼は趣味の範囲を越えて、氷の純度と美しさを追求していた。
濾過装置にこだわり、温度管理にこだわり、凍らせる容器の素材まで吟味した。

ある冬、透は長野の古民家を借りた。
空気が冴え、夜の静けさが深い場所だった。
ここなら理想の氷ができると思ったのだ。

夜、透は瓶に満たした水をひとつずつ、裏庭の棚に並べた。
空を見上げると、星がまばたいている。
まるで氷になる瞬間を空も見守っているかのようだった。

朝。透は慎重に瓶を取り出し、氷を取り出した。
それは期待通りの透明度だった。
まるで空気さえ閉じ込めていないような静けさがそこにあった。

ある日、地元の小学生たちが、見学にやってきた。
先生が工房の噂を聞きつけ、頼んできたのだった。

「氷って、ただの水が冷たくなっただけでしょ?」
そう言った男の子に、透はそっと氷を渡した。

「これを耳に当ててごらん」

少年は不思議そうな顔をしながら、氷を耳に当てた。

しん……という音がした。
静かで、けれど確かに音があった。

それは氷の中で水が結晶になっていくときの、わずかなひびき。
空気の泡が閉じ込められず、純粋な結晶が静かに生まれた証。

「……聞こえる」

少年の目が大きくなった。

他の子どもたちも耳に当て、口々に驚きの声を上げた。
「氷が鳴いてる」「宝石みたい」「冷たいけど、きれい」──その声に透は静かに頷いた。

透にとって、氷は芸術だった。
自然が創る、もっとも静かな彫刻。
無言で、けれど確かな存在感を放つもの。

冬が終わるころ、透は氷をひとつだけ残してすべて溶かした。
子どもたちに渡したものも、きっと今はもうない。
だが、あの瞬間に聞いた音と、見た透明さは、彼らの記憶に残っているだろう。

春が来た。

透は工房の片隅で、また瓶に水を注いだ。
次の冬に備えて、また新しい氷をつくる準備をするのだ。

氷が好きだという気持ちは、きっと変わらない。
時間と手間をかけて、自然の静けさを写しとること。
その中にしか見えない、美しさがあると彼は信じていた。