面白い

夜が名前を忘れるとき

夜が名前を忘れるとき、この町では人々の輪郭が少しだけ曖昧になる。それは決まって、月が雲に隠れた深夜二時。街灯の明かりが薄く伸び、影が自分の持ち主を見失い始める頃だ。夜は、ひとつずつ名前を落としていく。最初は呼び名。次に肩書き。最後に、自分で...
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遠ざかる音だけが知っている

町の外れに、使われなくなった駅がある。線路は途中で途切れ、時刻表も色あせ、誰も電車を待たなくなった場所。それでも、夜になるとそこには「音」だけがやって来た。それは遠ざかる音だった。近づくことは決してなく、いつも少しずつ離れていく。靴音にも似...
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消えなかった一行

この街では、文章は一定の時間が経つと消える。紙に書いた文字も、画面に打ち込んだ言葉も、記録として保存されたはずのデータでさえ、七日を過ぎると痕跡を残さず消失する。それは法律でも災害でもなく、ただ「そういう現象」として受け入れられていた。人々...
不思議

昨日を持たないアパート

古い三階建てのアパートには、不思議な決まりごとがあった。住人は誰一人として、「昨日のこと」を覚えていない。朝になると、廊下ですれ違う住人たちは必ず同じ会話を交わす。「はじめまして」「ええ、こちらこそ」名刺を渡す者もいれば、照れたように会釈す...
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思い出せないままの約束

その約束が、確かに存在していたことだけは分かっている。内容を思い出せないのに、忘れたままでいると胸の奥が静かに痛む。まるで、言葉になる前の後悔が、ずっとそこに沈んでいるみたいだった。私は毎朝、同じ時間に目を覚ます。理由はない。ただ、そうしな...
不思議

存在しない昨日

町の図書館には、貸し出しも返却もされない棚が一列だけあった。背表紙には日付が書かれているが、どれも「昨日」とだけ記されている。正確な年月日はなく、昨日という言葉だけが何百冊も並んでいた。私はそこで働いて三年になるが、その棚について説明を受け...
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声にならなかった言葉たち

その町には、声にならなかった言葉たちが集まる場所があった。駅から少し離れた、川沿いの古い倉庫。看板もなく、扉はいつも半分だけ開いている。夜になると、そこからかすかなざわめきが漏れ聞こえた。人の声に似ているけれど、どれも最後まで形を持たない、...
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終わりから始まる記録

この記録は、すでに終わった出来事から始まる。最初のページには、黒く太い文字でこう書かれていた。「世界は、昨日、静かに終わった」私はその一文を何度も読み返した。だが窓の外では、いつも通り朝の光が差し込み、遠くで電車の走る音が聞こえる。終わった...
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最後に残った温度

世界から熱が失われていくことに、人々が気づいたのは遅すぎた。最初は季節の異常だと思われていた。夏が短く、冬が長い。吐く息が白くなる時期が、年々早まる。それでも人々は暖房を強め、服を重ね、やり過ごそうとした。だがある日、海から湯気が立たなくな...
不思議

観測されなかった私

私は、誰にも観測されなかった。正確に言えば、存在していなかったわけではない。ただ、誰の視線にも、記録にも、測定器にも引っかからなかっただけだ。世界は観測されたものだけを「在る」と認める。名前、座標、体温、反応。どれか一つでも欠ければ、その存...