冬の灯、牡蠣小屋にて

食べ物

玄界灘の潮風が冷たく吹きすさぶ冬の日、港町・佐賀の片隅にひっそりと建つ一軒の牡蠣小屋がある。
「牡蠣焼き つばき屋」。
プレハブ造りの簡素な建物だが、夕暮れになると白い湯気とともに人々の笑い声が漏れ出す。

その日、暖簾をくぐって中に入ってきたのは、東京から来た若い女性・沙織だった。
仕事に疲れ、心を癒すために一人旅に出ていた。
ネットで偶然見つけたこの牡蠣小屋に、何か引かれるものがあったという。

「いらっしゃい。おひとりさん?」

小屋の奥から声をかけたのは、店主の初老の男・達也だった。
顔には深い皺が刻まれ、口元には優しげな笑みをたたえている。
彼はもう何十年もこの地で牡蠣小屋を営んでいた。

「はい、一人です。…牡蠣、食べたいんです」

「そりゃあいい。今日は身の太ったのが入っとる。ほら、ここに座んなさい。火をつけるけん」

炭火が赤々と灯され、鉄板の上で殻付きの牡蠣が音を立て始める。
ぱちぱちと殻がはじけ、白い蒸気が立ち上る。
その匂いだけで、沙織の心が少しずつ緩んでいった。

「東京からか。何かあったんか?」

達也は聞くともなく、問いかけた。

沙織は笑って首を振った。

「ただ、ちょっと…全部が嫌になっただけです。仕事も、東京の生活も。毎日、数字ばっかり追いかけて、自分が何のために生きてるのか分からなくなって…」

達也は黙って、炭火の上で焼けた牡蠣を器に取って沙織の前に置いた。

「うまいもん食ってる時は、そげんこと、忘れてしまいなさい。食べてごらん」

沙織は無言で牡蠣の殻を開け、レモンを絞って口に運んだ。

磯の香りと濃厚な旨味が、舌の上に広がる。
熱々の汁が喉を通っていくと、胸の奥に詰まっていた何かがほどけていく気がした。

「……おいしいです」

そう呟いた彼女の目尻に、知らず涙が浮かんでいた。

達也は黙って笑った。
その笑みに、何も語らなくてもすべてを包み込むような温かさがあった。

「ここに来る人間は、皆どこかしら傷を抱えとる。牡蠣はな、海の中でじっとして、潮の流れに身をまかせながら大きくなる。人間もそうや。無理に抗わんでいい。時が来れば、ちゃんと開く」

その言葉が、胸に静かに染み込んだ。

夜が更け、外は真っ暗だった。
けれど、小屋の中は炭火の灯と、湯気と、笑い声に満ちていた。
地元の漁師たちが集まり、焼酎を片手に語り合っている。
沙織もその輪の中に、自然と溶け込んでいた。

「明日も来ていいですか?」

そう沙織が尋ねると、達也はにやりと笑った。

「もちろん。あんたの席、空けとくよ」

外に出ると、星が冴え冴えと瞬いていた。
冷たい風が頬を撫でるが、心は不思議とあたたかい。
港の向こうに広がる海の闇に向かって、沙織はそっと呟いた。

「ありがとう、牡蠣小屋…」