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鍵のかからない記憶

その記憶には、鍵がかからなかった。人は誰でも、忘れたい記憶をしまうための小さな箱を心の奥に持っている、と言われている。蓋を閉じ、鍵をかけ、二度と開かないようにするための箱だ。けれど私の箱には、最初から鍵穴がなかった。朝、コーヒーを淹れる音を...
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感情の誤差範囲

その世界では、感情は数値で管理されていた。胸に埋め込まれた小さな計測器が、喜び、悲しみ、怒り、愛情を測定し、日々の生活に支障が出ないよう調整する。表示されるのは「許容誤差 ±3%」。人間らしさを失わないために設けられた、わずかな揺らぎだった...
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影が先に帰った日

その日、私は自分の影に置いていかれた。夕方、駅前の交差点で信号を待っていたときだった。西日に伸びるはずの影が、足元に見当たらない。代わりに、少し先の歩道を、私と同じ形をした黒い輪郭が、早足で進んでいくのが見えた。「待って」声を出したつもりだ...
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ひとつ少ない世界

この世界には、いつも何かがひとつ足りなかった。それが何なのか、誰も正確には言えない。ただ、人々は朝起きた瞬間に、胸の奥に小さな空白を感じる。その空白は、思い出そうとすると指の間からこぼれ落ちる砂のように、形を持たない。街には信号機があるが、...
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夜が名前を忘れるとき

夜が名前を忘れるとき、この町では人々の輪郭が少しだけ曖昧になる。それは決まって、月が雲に隠れた深夜二時。街灯の明かりが薄く伸び、影が自分の持ち主を見失い始める頃だ。夜は、ひとつずつ名前を落としていく。最初は呼び名。次に肩書き。最後に、自分で...
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遠ざかる音だけが知っている

町の外れに、使われなくなった駅がある。線路は途中で途切れ、時刻表も色あせ、誰も電車を待たなくなった場所。それでも、夜になるとそこには「音」だけがやって来た。それは遠ざかる音だった。近づくことは決してなく、いつも少しずつ離れていく。靴音にも似...
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消えなかった一行

この街では、文章は一定の時間が経つと消える。紙に書いた文字も、画面に打ち込んだ言葉も、記録として保存されたはずのデータでさえ、七日を過ぎると痕跡を残さず消失する。それは法律でも災害でもなく、ただ「そういう現象」として受け入れられていた。人々...
不思議

昨日を持たないアパート

古い三階建てのアパートには、不思議な決まりごとがあった。住人は誰一人として、「昨日のこと」を覚えていない。朝になると、廊下ですれ違う住人たちは必ず同じ会話を交わす。「はじめまして」「ええ、こちらこそ」名刺を渡す者もいれば、照れたように会釈す...
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思い出せないままの約束

その約束が、確かに存在していたことだけは分かっている。内容を思い出せないのに、忘れたままでいると胸の奥が静かに痛む。まるで、言葉になる前の後悔が、ずっとそこに沈んでいるみたいだった。私は毎朝、同じ時間に目を覚ます。理由はない。ただ、そうしな...
不思議

存在しない昨日

町の図書館には、貸し出しも返却もされない棚が一列だけあった。背表紙には日付が書かれているが、どれも「昨日」とだけ記されている。正確な年月日はなく、昨日という言葉だけが何百冊も並んでいた。私はそこで働いて三年になるが、その棚について説明を受け...