坂の途中に、小さな香水店があった。
古びた木の扉、ガラス越しに見える琥珀色の瓶。
店の名前は《Le Temps des Roses(バラの時)》。
この店には、いつも決まった時間にやってくる女性がいた。
名前は澪(みお)。
三十代半ば、黒髪をまとめ、静かな瞳を持つ女性だ。
彼女は香水を買うわけでもなく、ただ、店内に漂う香りを楽しむように過ごす。
ローズの香りに包まれながら、ゆっくりと数十分だけ椅子に腰かけて本を読んだり、ぼんやり外を眺めたりして、また静かに帰っていく。
店主の榊(さかき)は、それを不思議には思わなかった。
香りには、人それぞれの記憶が結びついている。
無理に聞かない。
それがこの店のルールだった。
ある雨の日、澪はいつものように現れた。
傘をたたむ手が少し震えていた。
榊が紅茶を差し出すと、彼女は小さく微笑み、「ありがとう」とだけ言った。
「この香り……今日のは、少し違いますね」
榊は小さく頷く。
「昨日、新しく調香したばかりのものです。“雨の薔薇”という名前をつけました」
澪は目を細めて微かに笑った。
「雨の薔薇……あの人が好きだった言葉です」
その言葉が口からこぼれたとき、店内の空気が少し変わった。
榊は初めて、彼女の沈黙の理由を尋ねるべきだと感じた。
「大切な人、だったんですね」
澪はしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
――彼は園芸家だった。
温室で薔薇を育て、香水のためのエッセンスを抽出していた。
二人は大学で出会い、共に植物を学び、薔薇に魅せられ、やがて恋に落ちた。
――しかし彼は病を患い、五年前にこの世を去った。
遺された温室には、彼の最後に手がけた“雨の薔薇”という名の新品種が咲いていた。
その香りは、ほんのり青く、どこか寂しく、それでいて優しかった。
「香りは、過去に戻れる唯一の扉かもしれません。あの香りに包まれていると、今でも彼と話している気がするんです」
榊は何も言わず、棚から一本の小瓶を取り出した。
「これ、差し上げます。あなたが語ってくれた“雨の薔薇”の記憶に、きっと近い香りです」
澪は目を見開き、小さく首を振った。
「そんな……これは商品でしょう?」
「いいえ、これは記憶のための香水です。商品にはできません」
小瓶を受け取った澪は、ほんの少し涙ぐんでから微笑んだ。
その日から、澪は以前より少しだけ長く店にいるようになった。
ある日は香りの話を、ある日は彼の思い出を語った。
季節が巡り、坂道に春の花が咲いたころ、澪はある日こう言った。
「私、温室を開くことにしました。小さな薔薇園です。“雨の薔薇”を咲かせる場所をつくります」
榊は静かに頷いた。
数か月後、《Le Temps des Roses》の棚に、新しい香水が加わった。
澪が初めて調香したローズの香りだった。
名前は《Souvenir de Pluie(雨の記憶)》。
今もその香りは、静かに、しかし確かに、誰かの記憶をそっと揺らしている。