その勇者は、世界を救うには少しだけ――いや、だいぶうっかりしていた。
名前はユウト。
村を出るとき、剣を忘れ、引き返して取りに戻り、その帰り道で今度はマントを置いてきたことに気づいた。
結局、三度目の出発でようやく旅が始まった。
「大丈夫かな、この人……」
見送りに来た幼なじみがつぶやいた声を、ユウトは聞かなかったことにした。
それでも、なぜか彼は旅の途中で魔物を退け、人を助け、仲間も増やした。
剣を落としても、転んでも、道を間違えても、そのたびに偶然が味方して、物事はよい方へ転がっていく。
――ただひとつ、大きな問題があった。
彼は、何をしに旅に出たのかを、途中で忘れてしまったのだ。
「えーと……宝探し、だったかな?」
「いや、もっと大事なことだった気がするぞ」
仲間の魔法使いリリィが額を押さえる。
「世界を救うんだよ、ユウト! 魔王を倒すために出てきたんでしょ!」
「あ、そうだった!」
ユウトはぱっと顔を明るくした。
「じゃあその魔王、どこにいるんだっけ?」
リリィはしばらく黙り込み、やがて小さく首を振った。
「……それが、わからないのよ」
奇妙な話だった。
どこの町に行っても、人々は困ってはいるが、「魔王」という言葉には首をかしげるばかりなのだ。
古い文献にも記述はあるが、どこかぼやけていて、まるで誰かがその存在を意図的に忘れさせたかのようだった。
それでも旅を続けるうちに、ユウトはある山奥へたどり着いた。
そこには、誰も近づかない古びた城があった。
「なんだか……ここ、すごく“それっぽい”ね」
「うん、ボスっぽい匂いがする」
なぜかそんな直感だけは鋭いユウトが、ぎい、と扉を押し開ける。
中は静まり返っていた。
ほこりが積もり、長い間誰も訪れていないことがわかる。
そして最奥の玉座の間。
そこに――いた。
「……やっと、来たか」
低く、しかしどこか疲れた声。
玉座には、一人の男が座っていた。
黒い衣、長い髪。
どう見ても、物語でいう「ラスボス」そのものだ。
「えっと……誰だっけ?」
「ひどいな!?」
思わず立ち上がるラスボス。
「我は魔王ゼルド! この世界を闇に沈めんとした――」
「魔王!」
ユウトがぽんと手を打った。
「思い出した! 倒す人だ!」
「“人”ではないがな!?」
ゼルドは肩を落とした。
「……まあいい。どうせ誰も来ないと思っていた。もう何年もだ。人々は我のことを忘れ、恐れもせず、ただ日々を生きている」
その声には、怒りよりも寂しさがにじんでいた。
「忘れられるって、そんなに嫌?」
ユウトが首をかしげる。
「当然だろう。恐れられてこその魔王だ。だが今は……ただ、ここにいるだけの存在だ」
沈黙が落ちる。
ユウトは少し考えてから、ぽつりと言った。
「じゃあさ、戦おうよ」
「……は?」
「忘れられてるなら、もう一回ちゃんとやり直せばいいじゃん。勇者と魔王。ぼくも思い出したし」
あまりにも軽い調子だったが、その目はまっすぐだった。
ゼルドはしばらく呆然とし、やがて――小さく笑った。
「……まったく、うっかりした勇者だな」
「よく言われる」
「だが、嫌いではない」
魔王は立ち上がり、闇をまとった。
その瞬間、城の空気が変わる。
忘れられていた“物語”が、息を吹き返すように。
「来い、勇者ユウト」
「うん!」
剣を――今度はちゃんと持っている――握りしめ、ユウトは駆け出した。
激しい戦いの中で、ユウトは何度も転び、剣を取り落とし、危うく崖から落ちかけた。
だがそのたびに、不思議と立て直す。
そして最後の一撃。
光が弾け、静寂が戻る。
膝をついたゼルドは、どこか満足そうに笑っていた。
「……ああ、これだ。これを待っていた」
「楽しかった?」
「ふん、魔王に向かって聞くことか」
だが、その顔は穏やかだった。
「ありがとう、勇者よ。これで我は――ちゃんと“終われる”」
その体は光となって、ゆっくりと消えていく。
ユウトはしばらくそこに立ち尽くしていた。
「……あれ、ぼく、なんでここに来たんだっけ」
後ろでリリィが叫ぶ。
「今さっき全部やったでしょ!?」
城の外では、風が吹いていた。
人々はきっと、また少しずつ忘れていくのだろう。
魔王のことも、戦いのことも。
それでも、どこかに小さな余韻だけは残る。
うっかり勇者と、忘れられたラスボスが、たしかに出会って、物語を終えたという――そんな、やさしい記憶だけが。


