しあわせは、だいたい見えにくいところにある。たとえば、湯気のむこう。
冬の朝、台所に立つと、やかんの口から白い湯気がふわりと立ちのぼる。
窓の外はまだ薄暗く、雪は音もなく降り続いている。
わたしはストーブの前で手をこすりながら、その湯気の向こうをじっと見つめていた。
――ねえ、見えた?
背中のほうから声がする。
振り向かなくてもわかる。
「きみ」だ。
「まだ、よくわからない」
「ちゃんと見るんじゃなくて、ぼんやり見るんだよ」
きみはいつも、少しだけ不思議なことを言う。
ぼんやり見るなんて、どうやるのだろう。
けれど言われたとおりに、目の力を少しだけ抜いてみる。
すると、湯気の向こうで何かが揺れた気がした。
「……あ」
「でしょ?」
きみは得意そうに笑う。
わたしはもう一度、そっと息をひそめて見る。
白い湯気のむこうで、小さな光がゆらゆらと揺れている。
それは形のない、けれど確かに「ある」ものだった。
まるで、誰かの笑った気配や、あたたかい記憶がそのまま漂っているみたいに。
「これが、しあわせ?」
「うん。たぶんね」
きみは曖昧にうなずく。
「たぶんって?」
「しあわせって、人によってちょっとずつ違うから。でも、ああいうふうに見えるときは、たいていそう」
わたしはまた湯気のむこうを見る。
光はさっきよりも少しだけ大きくなって、ゆっくりと広がっている気がした。
「どうして、ここにあるの?」
「湯気があると、見えやすくなるんだよ。普段は、空気にまぎれて見えないから」
きみは湯のみを差し出してくる。
中には、湯気の立つお茶。
「ほら、持って」
両手で包むと、じんわりとあたたかい。
冷えていた指先が、ゆっくりとほどけていく。
そのとき、ふっと思い出した。
昨日、帰り道で転びそうになったとき、誰かが腕をつかんでくれたこと。
名前も知らない人だったけれど、「大丈夫?」と笑ってくれたこと。
その記憶が、胸の奥でふわりとほどける。
「あ……増えた」
湯気のむこうの光が、またひとつ、ふくらんだ気がした。
きみはうなずく。
「思い出すと、見えるようになるんだよ」
「じゃあ、これは……わたしの?」
「うん。きみのしあわせ」
なんだか少しくすぐったい。
けれど同時に、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
外では、雪がまだ降り続いている。
けれど、台所の中は別の季節みたいにやわらかい。
「きみのは?」
そう聞くと、きみは少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「ぼくのは、今ここにあるよ」
「どれ?」
「ほら」
きみはわたしの持つ湯のみを指さす。
「それを一緒に見てる時間」
わたしは思わず笑ってしまう。
「そんなの、見えないよ」
「見えなくてもいいんだよ。たぶん、そういうのがいちばん消えにくいから」
そう言って、きみは窓の外を見る。
白い雪の向こうにも、きっと何かあるのだろう。
わたしはもう一度、湯気のむこうを見つめる。
光はゆっくりと揺れながら、確かにそこにあった。
手を伸ばしても触れられないけれど、なくならないもの。
「ねえ」
「なに?」
「これ、なくなっちゃったりするのかな」
きみは少しだけ考えて、それから首を振った。
「見えなくなることはある。でも、なくなるわけじゃないよ」
「どうして?」
「ちゃんと、どこかに残ってるから。きみが忘れても、たぶん、どこかで湯気になって待ってる」
わたしはその言葉を胸の中で転がす。
忘れても、待っているしあわせ。
それなら、少し安心できる気がした。
やかんが小さく鳴って、また新しい湯気が立ちのぼる。
白い向こう側で、光がひとつ、またひとつと増えていく。
わたしはそれを、ぼんやりと見つめながら思う。
しあわせは、きっと遠くにあるんじゃない。
こうして、手のひらのあたたかさや、誰かと分けあう時間の中に、静かに隠れている。
ただ、少しだけ見えにくいだけで。
だから、湯気のむこうをのぞくみたいに、
ときどき立ち止まって、ぼんやり見てみればいいのだ。
きっとそこに、ちゃんとあるから。

