ポケットに住みついた小さな宇宙

不思議

それに気づいたのは、帰り道のバスの中だった。

いつものようにコートのポケットに手を入れたとき、指先に触れたのは、硬貨でも鍵でもなく、ひんやりとした空気だった。
おかしいなと思って、そっと覗き込むと、そこには夜空が広がっていた。

ほんとうに、小さな夜空だった。

黒というより、深い藍色のなかに、いくつもの星が瞬いている。
しかも、その星はただ光っているだけじゃなく、ゆっくりと動いていた。
まるで呼吸するみたいに、光がふくらんではしぼむ。

思わず息をのんだ拍子に、ポケットの中の星がひとつ、くしゃっと揺れた。

「ごめん」

思わずそう言ってしまったけれど、もちろん返事はない。
けれど、なぜか、怒っていない気がした。
むしろ、こちらを見上げているような、そんな気配があった。

家に帰って、部屋の電気を消してから、もう一度じっくり覗いてみる。
ポケットの中の宇宙は、昼よりもずっとはっきりしていた。

指先をそっと差し入れると、空気はやわらかく、少しだけ温かい。
触れたところから、星の光がふわりと広がる。

そのとき、ちいさな音がした。

鈴みたいな、風がガラスをなぞるみたいな、そんな音。

耳を近づけると、どうやらそれは、星同士が触れ合う音らしい。
ひとつが動くと、連れて別の星も動いて、また別の星と触れ合う。
そうして、かすかな音楽のようなものが生まれている。

わたしは、その夜、しばらく何もせずにポケットを覗き続けた。

翌朝、学校に行くときも、その宇宙はちゃんとそこにあった。
歩くたびに、わずかに星が流れて、音が変わる。

授業中、ノートをとりながら、こっそり指を差し入れてみる。
すると、光がふわっと揺れて、まるで「ここにいるよ」と言われているみたいだった。

なんだか安心して、少しだけ眠くなる。

その日から、わたしはポケットの中の宇宙と一緒に過ごすようになった。

いやなことがあった日は、そっと手を入れて、星の動きを感じる。
すると、不思議と気持ちがほどけていく。
怒っていたことも、悲しかったことも、遠い星の出来事みたいに、小さくなっていく。

逆に、嬉しい日は、指先で軽く星をつついてみる。
すると、光がぱっと広がって、宇宙全体が少し明るくなる。

まるで、わたしの気持ちが、そのまま伝わっているみたいだった。

ある夜、ふと思った。

これは、もしかして、わたしのものなんだろうか。

それとも、どこかから迷い込んできたのだろうか。

考えても答えは出ない。
でも、そのとき、ポケットの中で、ひときわ大きな光がゆっくりと瞬いた。

まるで、「どっちでもいいよ」と言われたみたいだった。

冬が近づくにつれて、外の空気はどんどん冷たくなっていった。
でも、ポケットの中の宇宙は、いつも同じ温度で、静かに光り続けている。

ある日、雪が降った。

白い粒が、音もなく街を覆っていく。
バスを降りて、家までの道を歩きながら、わたしはポケットに手を入れた。

すると、いつもよりも星がゆっくりと流れていた。

雪の日は、時間も少しだけゆっくりになるのかもしれない。

立ち止まって、空を見上げる。
灰色の雲の向こうに、本当の星は見えない。
でも、わたしのポケットの中には、確かに夜があった。

その夜、部屋の明かりを消して、ポケットの宇宙を取り出そうとしてみた。

そっと指を入れて、手のひらを広げる。
すると、光がふわりと広がって、一瞬だけ、部屋の中に星が浮かび上がった。

けれど、すぐにそれは縮んで、またポケットの中に戻ってしまう。

どうやら、この宇宙は、ここに住むのが好きらしい。

「いいよ」

わたしは小さく言った。

「ここにいて」

ポケットを軽く叩くと、内側で、かすかな音が鳴った。
あの、星が触れ合う音だ。

それは、返事みたいに聞こえた。

それからも、宇宙はずっとそこにある。

特別なことは何も起きない。
星が急に増えたり、消えたりすることもない。
ただ、静かに、ゆっくりと、光り続けている。

けれど、たぶんそれでいい。

ポケットに手を入れれば、いつでも小さな夜に触れられる。
自分の中にも、こんなふうに広がるものがあるんだと、思い出せる。

今日もまた、歩きながら、そっと指先で星をなぞる。

かすかな音が鳴って、わたしは少しだけ笑う。

世界は思ったより広くて、そして、思ったよりも近い。

だって、その一部は、いまもずっと、わたしのポケットの中で、静かに息をしているのだから。