午後三時、窓の外はやわらかな光で満ちていた。
授業も終わり、部屋にひとりきりの時間。
ぼくは机に突っ伏して、なんでもない日がそのまま過ぎていくのを、少しだけ惜しいと思っていた。
そのときだった。
「……は、は……」
くしゃみの予感は、たいてい唐突にやってくる。
逃げ場を探す暇もなく、ぼくは顔を上げた。
「――はくしょん!」
その瞬間、世界がひっくり返った。
ほんとうに、上下が逆になったわけじゃない。
けれど、何かが決定的に裏返った。
窓の外の空は、青からやわらかな橙色に変わり、遠くで鳴いていたはずのカラスの声が、近くで笑っているように聞こえる。
ぼくはゆっくりと顔を上げた。
机の上の消しゴムが、少しだけ浮いていた。
「……え?」
指でつつくと、ふわりと宙を泳ぐ。
重さが、半分くらいになったみたいだ。
ペンも、ノートも、ぼくの髪の毛さえも、どこか軽くなっている。
そして、部屋の隅に――見知らぬ扉があった。
白くて、細長くて、今まで一度も見たことのない扉。
でも、不思議と怖くはなかった。
ぼくは立ち上がり、そっとノブに手をかける。
開けると、そこは「午後」が広がっていた。
説明するのがむずかしいけれど、そこには時間のかけらが積もっていた。
誰かがうとうとした午後。
洗濯物が風に揺れていた午後。
帰り道に遠回りした午後。
そんな無数の午後が、やわらかな光の粒になって漂っている。
「いらっしゃい」
声がした。
振り向くと、小さな人影が浮かんでいる。
ぼくと同じくらいの背丈だけれど、輪郭が少し曖昧で、光の中に溶けている。
「ここは、くしゃみでひっくり返った世界の午後だよ」
「くしゃみで?」
「うん。強いくしゃみはね、世界の表と裏をちょっとだけ入れ替えるんだ」
ぼくは、自分のくしゃみを思い出す。
あれが、こんな場所につながっていたなんて。
「でも、すぐ戻るよ」
その子は笑った。
「だから、その前に、好きな午後をひとつ持っていくといい」
「持っていく?」
「きみの世界にね。少しだけ、混ざる」
ぼくは周りを見渡した。
光の粒が、静かに漂っている。
手を伸ばすと、ひとつがふわりと近づいた。
それに触れた瞬間、景色が流れ込んでくる。
縁側で昼寝する猫。
風鈴の音。
遠くで誰かが呼ぶ声。
なんでもない午後。
でも、なぜか胸があたたかくなる。
「それにするの?」
「……うん」
ぼくがうなずくと、その光は小さな種みたいに縮んで、手のひらに収まった。
「大事にね」
その子が言った瞬間、
「……は、は……」
また、あの感覚がやってくる。
「もう戻る時間だね」
「え、ちょっと――」
「大丈夫。また、くしゃみが連れてきてくれる」
「――はくしょん!」
次の瞬間、ぼくは自分の部屋に戻っていた。
机の上の消しゴムは、ちゃんと重さを取り戻している。
窓の外も、いつもの午後の色だ。
夢だったのかもしれない。
でも、手のひらには、あの小さなあたたかさが残っていた。
その日から、ぼくの午後は少しだけ変わった。
なんでもない時間の中に、ふとしたやさしさが混ざる。
風の音が少しやわらかく聞こえたり、帰り道を少しだけ遠回りしたくなったり。
そしてときどき、くしゃみが出そうになると、少しだけ期待してしまう。
もしかしたらまた、世界がひっくり返るかもしれないから。
ぼくは今日も、窓の外の午後を眺めながら、そっと息を整える。
「……は、は……」
まだ、くしゃみは出ない。
けれど、その予感だけで、午後はもう少しだけ特別になる。


