となりのベランダから届く春

面白い

春は、音でやってくる。

はじめに気づいたのは、カーテンのすき間からこぼれるやわらかな風の音だった。
冬のあいだ固く閉じていた窓を少しだけ開けると、くすぐったいような匂いが部屋に入りこんでくる。
土と、陽だまりと、どこか甘いものが混ざった、知らないのに懐かしい匂い。

それから数日後、わたしは“それ”を聞いた。

ちりん、と小さな音。

となりのベランダからだった。

最初は風鈴かと思ったけれど、まだ風鈴の季節には少し早い。
耳を澄ますと、また、ちりん。
今度は少し長く、余韻を引いて鳴った。

わたしはこっそりカーテンをめくり、となりのベランダをのぞいた。

そこには、見慣れないものが置かれていた。

白い木箱。
ふたは半分開いていて、中には何かが詰まっている。
風が吹くたびに、その中身が触れ合って音を立てているらしい。

ちりん。

その音は、どういうわけか、聞くたびに胸の奥をやさしくなでていく。
思い出しそうで思い出せない、遠い記憶に触れるみたいに。

翌日、学校から帰ると、また音がしていた。

ちりん、ころん。

昨日より少し賑やかだ。
わたしは思いきってベランダに出て、「こんにちは」と声をかけてみた。

すると、白い木箱の向こうから顔を出したのは、同い年くらいの女の子だった。

「こんにちは」

その子は少し驚いた顔をして、それからふっと笑った。

「これ、気になる?」

わたしはうなずいた。

女の子は木箱を持ち上げて見せてくれた。
中には、小さなガラス玉や、鈴みたいなものや、見たことのない薄い金属の板が入っている。

「春の音、集めてるの」

「春の音?」

「うん。ほら、雪どけのしずくとか、つぼみがひらくときの気配とか、そういうの。目に見えないから、こうやって音にしてるの」

そう言って、女の子は指でそっと中身を揺らした。

ちりん、ころころ、しゃらん。

たしかにその音は、ただの物の音じゃなかった。
さっき感じたあの匂いや、あたたかい風や、やわらかい光が、一緒に鳴っているみたいだった。

「よかったら、ひとつ持ってみる?」

差し出された小さなガラス玉を、わたしは両手で受け取った。
ひんやりしているのに、不思議と冷たくない。

軽く振ると、

ころん、とやさしい音がした。

その瞬間、胸の奥にふわっと何かが広がった。
まだ来ていないはずの未来の記憶みたいな、でも確かに自分の中にあるあたたかさ。

「それね、“はじまりの音”」

女の子が言った。

「新しいことが始まるときの、ちいさな音」

わたしはもう一度、ガラス玉を揺らした。

ころん。

その音に背中を押されるみたいに、明日が少し楽しみになる。

「名前、なんていうの?」

気づけばそう聞いていた。

女の子は少し考えてから、くすっと笑った。

「春でいいよ」

そう言って、また木箱を揺らす。

ちりん、しゃらん。

その日から、わたしはベランダに出るのが日課になった。

春は毎日、少しずつ音を増やしていく。
朝の光の音、洗濯物が風に揺れる音、遠くで誰かが笑う音。
それらが全部、あの白い木箱の中でやさしく重なり合う。

ある日、わたしがベランダに出ると、木箱は静かに閉じられていた。

春の姿はない。

代わりに、小さな紙が置かれていた。

「もうすぐ本物の春が来るから、これはおしまい」

わたしはしばらく立ち尽くした。

それから、そっと木箱に手を触れる。

ちりん。

かすかな音が、まだ中に残っていた。

空を見上げると、光がやわらかくにじんでいる。
風が頬をなでて、どこかで花の匂いがした。

わたしは自分のポケットを探る。

あのガラス玉が、まだそこにあった。

ころん。

揺らすと、小さな音が鳴る。

その音は、もうとなりのベランダからではなく、たしかにわたしの中で響いていた。

春は、外から届くだけじゃない。

いつのまにか、自分の中にも住みついて、そっと音を鳴らしてくれるものなのだと、わたしはそのとき、はじめて知った。