春の終わりに近い、まだ少し冷たい風の残る夕方だった。
きみと出会ったのは、古いアパートの裏にある、ひっそりとした空き地だった。
雑草がやわらかく揺れて、どこか遠くで洗濯物の匂いがしている。
そんな、誰にも見つからなさそうな場所。
「ここ、あたたかいよ」
きみはそう言って、しゃがみこんだ。
何があたたかいのか分からなくて、ぼくも隣に座る。
すると、地面からじんわりと、ほんとうに小さなぬくもりが伝わってきた。
「ね、ほら」
きみは土をそっとかき分ける。
そこには、小さなガラスの瓶が埋まっていた。
手のひらに乗るくらいの、丸い瓶。
中には、淡いオレンジ色の光がふわりと揺れていた。
「これ、秘密なんだ」
きみは少しだけ声をひそめて言った。
「“あたたかい秘密”。見つけた人だけが、分けあえるの」
瓶を開けると、ふっと、やさしい空気が広がった。
冬の朝に飲むスープみたいな、誰かに名前を呼ばれたときみたいな、そんな、胸の奥がほぐれる感じ。
「これね、ひとりだと、すぐ消えちゃうんだよ」
きみは笑った。
「でも、ふたりでいると、長く残るの」
ぼくは不思議に思いながらも、その光に手をかざしてみた。
すると、指先からじんわりとぬくもりが広がって、なぜか少し泣きそうになった。
「どうして泣きそうなの?」
「……わからない。でも、なんか、懐かしい」
きみはうなずいた。
「それでいいんだよ。この秘密、理由はなくていいの」
それからぼくらは、何も話さずにその光を見つめていた。
空がゆっくりと青から橙に変わっていくのを、ただ並んで眺める。
ときどき風が吹いて、きみの髪が揺れる。
そのたびに、瓶の中の光もやさしく揺れた。
「ねえ」
きみがぽつりと言った。
「この秘密、少し分けてあげる」
そう言って、きみは光をすくうように手をかざし、そっとぼくの手のひらに触れた。
その瞬間、胸の奥に、小さな灯りがともった気がした。
強くはない。
でも、消えそうでもない。
静かに、確かにそこにあるあたたかさ。
「これでね、離れても大丈夫」
きみは少しだけ寂しそうに笑った。
「秘密は、ちゃんと残るから」
「また会える?」
思わず聞いてしまう。
きみは少し考えて、それから首をかしげた。
「会えるかもしれないし、会えないかもしれない。でもね」
きみは指先でぼくの胸のあたりを軽く指した。
「そこにあるなら、きっと大丈夫」
その日の帰り道、ぼくはひとりで歩きながら、自分の中の小さな灯りを何度も確かめた。
手で触れることはできないけれど、たしかにそこにあって、歩くたびに少しだけあたたかくなる。
家に帰っても、そのぬくもりは消えなかった。
むしろ、静かな夜の中で、ゆっくりと広がっていくようだった。
翌日、同じ空き地に行ってみた。
けれど、そこにはもう瓶はなくて、ただのやわらかい土と、風に揺れる草だけがあった。
きみの姿も、どこにもなかった。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
胸の奥にある、小さな灯りが、そっと言う。
——分けあったから、消えないよ。
ぼくはしゃがみこんで、土にそっと手を触れた。
ほんの少しだけ、あのときのぬくもりが残っている気がした。
「ありがとう」
誰に向けたのか分からないまま、そうつぶやく。
風がやさしく吹いて、まるで返事みたいに頬をなでた。
それからぼくは、ときどき誰かにやさしくするようになった。
理由なんてなくていい。
ただ、あの灯りが少しだけ揺れるから。
もしかしたら、それが「分けあう」ということなのかもしれない。
そしてきっと、どこかでまた誰かが、小さな瓶を見つける。
そのとき、あたたかい秘密は、またふたり分になる。
静かに、やさしく、消えないまま。


