商店街のいちばん端に、その古びた店はある。
看板には小さな文字で「つり銭屋」と書かれている。
レジもなければ値札もない。
あるのは、古い木箱と、真鍮の小さな皿だけだ。
その店では、お金の代わりに「今日あったこと」を差し出す。
嬉しかったことでも、悔しかったことでもいい。
客がぽつりと話すと、店主はうなずきながら木箱の中から硬貨を一枚、皿に置く。
それが「しあわせのつり銭」だという。
高校二年の遥は、雨の帰り道にその店を見つけた。
失恋したばかりだった。
勇気を出して告白したのに、「ごめん」と言われた。
世界はいつも通りなのに、自分の中だけが止まっている気がしていた。
半信半疑で戸を開ける。
「いらっしゃい。今日は、なにを払いますか?」
白髪の店主はやさしく笑った。
遥は迷ったが、正直に話した。
好きだったこと。
断られたこと。
帰り道に泣いたこと。
店主は黙って聞き、最後にこう言った。
「それは、ずいぶん高い支払いですね」
木箱から取り出されたのは、銀色の硬貨だった。
見たことのない模様が刻まれている。
小さな太陽と、跳ねるような線。
「これは?」
「しあわせのつり銭です。多めに入れておきました」
「多め?」
「ええ。ちゃんと好きになった分だけ」
遥は首をかしげながらも、硬貨をポケットに入れた。
その夜、部屋で制服を脱ごうとしたとき、ポケットから硬貨が転がり落ちた。
ころん、と床で光る。
不思議と、胸の奥が少しあたたかくなった。
失恋の痛みは消えていないのに、その痛みが「ちゃんと好きだった証拠」みたいに思えた。
翌日、学校で友だちが言った。
「昨日、あの人、すごく困ってたよ。部活のことで」
遥は思わず足を止めた。
好きだった人の顔が浮かぶ。
今までなら、もう関わらないでおこうと思っただろう。
でも、ポケットの中で硬貨がほんのり重い。
遥はその人に声をかけた。
ぎこちなく、でもまっすぐに。
「なにか手伝える?」
驚いた顔が、やがてほっと緩む。
「ありがとう。助かる」
その言葉を聞いた瞬間、遥は気づいた。
硬貨は消えていた。
ポケットの中には何もない。
代わりに、胸の奥に小さな灯りがともっている。
数日後、遥はもう一度つり銭屋を訪れた。
「硬貨、なくなっちゃいました」
「使いましたね」
店主は満足そうにうなずく。
「あれは、使うとなくなるんです。でも、なくなったぶんだけ、持ち主の中に残る」
「しあわせが?」
「ええ。つり銭は、次の誰かに渡すための種ですから」
遥は少し考えてから言った。
「じゃあ、今日はこれを払います」
差し出したのは、昨日の出来事だった。
失恋した相手と笑って話せたこと。
まだ少し痛むけれど、それでも前より軽くなったこと。
店主は目を細める。
「いい支払いですね」
今度は金色の硬貨が置かれた。
「また多めですか?」
「ええ。前よりも、ずっと」
遥は硬貨を受け取り、店を出る。
雨は止み、商店街の水たまりに空が映っている。
歩き出すたび、胸の奥でなにかが増えていく気がした。
しあわせは、もらうものじゃない。
払ったぶんだけ、少し多めに返ってくる。
そんな不思議なつり銭が、この街のどこかで、今日もそっと渡されているのだった。

