その朝、町じゅうのスマートフォンが同時に震えた。
《本日午前九時、笑いすぎ注意報を発令します。不要不急のくすぐりはお控えください》
差出人は気象庁……ではなく、《感情気象観測所》。
空の天気だけでなく、人の心の気圧も測る、ちょっと変わった役所だ。
高校二年の真昼(まひる)は、通知を二度見した。
窓の外は雲ひとつない青空。
笑いすぎるような出来事の予兆はない。
けれど、こういう予報はだいたい当たるのだ。
一時間目、担任が真顔で出席を取り始めた瞬間、教室の後ろで誰かが小さなくしゃみをした。
「へくちっ、未来から来ました」
それだけで、最初の波が来た。
くしゃみの主は転校生の風間。
普段は寡黙なのに、なぜか今日に限って一言が妙におかしい。
真昼は必死で唇を噛んだ。
だが、隣の席の友だちが「未来って花粉あるんだ」と囁いた瞬間、決壊した。
笑いは感染する。
最初は小さなさざ波だったものが、あっという間に教室全体を揺らす大波になる。
担任もこらえきれず、黒板に「静粛」と書こうとして「静粛(しずく)」とルビを振ってしまい、それを見た瞬間、第二波が到達した。
午前十時三十分、町内全域で笑い指数が危険域に達する。
パン屋ではメロンパンが「メロンぱぁん」と鳴き、駅のアナウンスは「次は終点、終点は今日も終わりません」と言い間違える。
笑いの震源は特定できない。
ただ、空の高いところで、見えない気流がぐるぐると回っているようだった。
真昼は、胸の奥がくすぐったくなるのを感じていた。
笑うのは楽しい。
けれど、どこか怖い。
なぜなら、三年前の同じ日にも、笑いすぎ注意報は出たからだ。
あの日、真昼は母と大げんかをしていた。
つまらない理由だった。
母の冗談を、どうしても笑えなかったのだ。
「笑えない」と言った真昼に、母は少しだけ寂しそうな顔をした。
その数日後、母は遠くの町へ転勤になった。
それ以来、真昼は笑うことが少し苦手だった。
昼休み、校庭の隅で一人でいると、風間が隣に腰を下ろした。
「きみ、笑うの我慢してたでしょ」
「してない」
「未来から見てたら、わかる」
またその冗談だ、と言い返そうとして、真昼はふと気づく。
風間の目は、からかう色ではなく、どこか優しい。
「笑いってね、溜めると低気圧になるんだって。心の底に重たい雲ができる」
彼は空を見上げた。
「だから今日は、町じゅうで晴らす日なんだ」
午後、注意報はピークを迎える。
体育館で行われた全校集会では、校長が真面目な顔で「笑いすぎると腹筋が鍛えられます」と言い間違え、ついに自分でも吹き出した。
真昼は、もう我慢しなかった。
腹の底から湧き上がる笑いに身を任せる。
涙がにじみ、呼吸が苦しくなるほど笑う。
隣で風間も笑っている。
知らないうちに、胸の奥にあった小さな雲が、すうっと溶けていくのがわかった。
そのとき、ポケットのスマートフォンが震えた。
《笑いすぎ注意報、まもなく解除》
同時に、別の通知が届く。
《お母さん:今日、急に思い出して笑っちゃった。真昼も元気?》
たったそれだけのメッセージ。
真昼は画面を見つめ、そして声をあげて笑った。
理由なんて、もうどうでもよかった。
町の上空で、見えない雲がほどけていく。
夕方、注意報は正式に解除された。
空は相変わらず晴れている。
けれど真昼には、朝よりも少しだけ、世界が軽く見えた。
「ねえ、本当に未来から来たの?」
帰り道、そう尋ねると、風間は肩をすくめる。
「うん。未来ではね、笑いすぎ注意報は、年に一度の祝日なんだ」
「うそつき」
「さあね」
彼の笑顔を見て、真昼は思う。
もし未来があるなら、そこでは今日みたいに、思いきり笑えていたらいい。
そしてその笑いが、遠く離れた誰かにも届いているなら。
空のどこかで、また小さな気流が生まれる。
次の注意報は、きっと悪くない。

