うっかり魔法使いのルオは、めったにない休日の朝を、たいへん慎重に迎えるつもりだった。
なにしろ彼は、これまで幾度となく「ちょっとしたつもり」で世界をずらしてきた。
くしゃみをすれば隣町にだけ春がもう一度来てしまい、鍋を焦がせば台所の時間が三分ほど巻き戻る。
洗濯物を乾かそうと風を呼べば、うっかり渡り鳥まで連れてきてしまう。
だから今日は、いっさい魔法を使わないと決めたのだ。
窓を開ける。
普通の風が入ってくる。
鳥は増えない。
雲も二つのまま。
ルオはほっと息をついた。
「よし、完璧な休日だ」
そう言った瞬間、庭の鉢植えがふわりと三センチ浮いた。
「あっ」
言葉に含まれていた、ほんの少しの達成感。
それが魔法の火花を生んだのだ。
ルオは慌てて両手で空気を押さえ込む。
鉢植えは、ゆっくりと元の位置に戻った。
土がこぼれ、白い小花がひとつ、揺れた。
「大丈夫、大丈夫。今日は失敗しない」
彼は町へ出かけることにした。
魔法を使わないために、ほうきではなく歩いて。
石畳を踏みしめるたび、自分がただの青年であることが嬉しくなる。
パン屋の前を通ると、焼きたての匂いがする。
ルオは魔法で香りを増幅させたい衝動をぐっとこらえ、普通に扉を押した。
「今日はひとつだけにする」
そう言って丸パンを買う。
店主は笑う。
「魔法使いさんも、節約かい?」
「節約というか、自衛です」
店を出て、川辺に腰を下ろす。
パンをかじる。
雲は流れ、子どもたちが石を投げる。
水面に広がる波紋が、思いのほか美しい。
ルオはそれを、ただ見ている。
魔法を使えば、波紋を七色に染められる。
水を宙に持ち上げて、空にもう一つの川を作ることだってできる。
でも今日はしない。
世界は、触れないままでも十分きれいだと、覚えていたい。
そのとき、隣に小さな女の子が座った。
赤い長靴を履いている。
「おにいさん、魔法使い?」
ルオはぎくりとする。「どうして?」
「さっき、パンがちょっとだけ光った」
ルオは自分の手元を見る。
確かに、丸パンの表面がほんのり温かく輝いている。
どうやら“おいしい”と思った気持ちが、魔法に変わったらしい。
「これは……その、パンががんばってるだけだよ」
女の子はくすっと笑う。
「じゃあ、がんばってるパン、半分ちょうだい」
ルオは一瞬迷い、それからパンを割った。
差し出すと、光はふっと消えた。
代わりに、女の子の笑顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう」
その声は、魔法よりもまっすぐに胸に届いた。
女の子が去ったあと、ルオは川面を見つめる。
波紋は相変わらず透明だ。
けれど、さっきよりも少し深く光って見える。
「うっかりでも、まあ、いいか」
小さな魔法がこぼれてしまうのは、きっと止められない。
嬉しいときも、誰かに分けたくなったときも、彼の心はすぐ火花を散らす。
それならば、せめて優しい方向へこぼそう。
帰り道、夕焼けが町を染めていた。
ルオは思わず立ち止まる。
あまりにきれいで、胸がいっぱいになる。
危ない、と彼は思う。
だがそのとき、空の端で、ほんの少しだけ星が早く瞬いた。
誰にも気づかれないほどの、小さなフライング。
ルオは空に向かって、小さく謝った。
「ごめん。でも、ありがとう」
休日は、無事に終わらなかった。
けれど世界は壊れず、むしろ少しだけ、やわらかくなった気がする。
うっかり魔法使いの休日は、そんなふうにして、いつもより静かに、ほんの少しだけ輝いていた。


