世界でいちばんやわらかい奇跡

面白い

その奇跡は、だれも気づかないほど、やわらかかった。

町のはずれに「奇跡預かり所」という小さな店がある。
看板もなく、ただ窓辺に白いカーテンが揺れているだけの場所だ。
そこでは、起きなかった奇跡や、起きそこねた奇跡をそっと預かっている。

店番をしているのは、春(はる)という名前の青年だった。
春は、奇跡を瓶に詰める仕事をしている。
瓶の中では、淡い光がふわふわと呼吸をする。
強く握ると壊れてしまうから、触れるときは、赤ん坊を抱くみたいに、両手でそっと。

ある日、少女が店を訪ねてきた。
制服の袖をぎゅっと握りしめ、目だけがまっすぐだった。

「わたしの奇跡、ここにありますか」

春は棚を見渡す。
瓶は大小さまざま。
中には、告白が成功するはずだった奇跡や、雨がやむはずだった奇跡、間に合うはずだった電車の奇跡もある。

「どんな奇跡でしたか」

「おばあちゃんが、もう一度だけ、わたしの名前を呼ぶ奇跡です」

春は、いちばん奥の棚から、小さな瓶を取り出した。
ほとんど透明で、光っているのかどうかもわからない。
けれど、耳を澄ますと、かすかな声がする。

少女は瓶を両手で受け取る。
ふたを開けると、光はふわりと空気に溶けた。
音もなく、匂いもなく、ただ、やわらかく。

その瞬間、少女のポケットの中で、古い携帯電話が震えた。
画面には、もう消したはずの留守番メッセージが一件。

再生ボタンを押すと、聞き慣れた声がした。

『……あかね』

それだけだった。
けれど少女は、泣きながら笑った。
声は途中で途切れている。
けれど、たしかに呼ばれたのだ。

春は何も言わない。
奇跡は、大きく世界を変えるものではない。
ただ、ひび割れた心に、やわらかな布をあてるだけだ。

「これ、返さなくていいんですか」

少女が聞く。

「奇跡は、使うとなくなります。でも、なくなったあとに残るもののほうが、大事なんです」

少女はうなずき、店を出ていった。
春は空になった瓶を洗い、窓辺に並べる。
空の瓶は、すこしだけあたたかい。

夜になると、店の奥で、預けられた奇跡たちがかすかに揺れる。
起きなかった告白も、間に合わなかった電車も、雨がやまなかった午後も、ぜんぶ、やわらかな光のまま眠っている。

奇跡は、叶うことだけが奇跡じゃない。
叶わなかったことが、だれかをやさしくするなら、それもまた奇跡だ。

翌朝、春は店の前を掃く。
すると、扉の隙間に、小さな紙切れが挟まっていた。

『ありがとう。わたし、ちゃんと呼ばれました』

丸い字で、そう書いてある。

春は紙を胸ポケットに入れる。
胸の奥で、何かが、ふわりとほどける。

世界でいちばんやわらかい奇跡は、たぶん、声そのものではない。
呼ばれたと信じられる心のほうだ。

そしてその心は、だれの手のひらにも、そっと乗る。
壊れないように、あたためるように。

奇跡は、いつも、やわらかい。