さよならを笑って言う練習

面白い

放課後の視聴覚室には、古びたピアノと、ひとつの張り紙がある。

――「さよならを笑って言う練習会 毎週金曜日」

最初にその紙を見つけたとき、わたしは冗談だと思った。
さよならを、笑って? そんなことができるなら、きっと誰も泣かない。

それでも、わたしは扉を開けた。
三月の終わり、転校が決まっていたからだ。

部屋には三人いた。
窓際に座る少年と、長いマフラーを巻いた女の子、それから司会らしき青年。
青年は黒板に大きく「練習」と書いて、にこりと笑った。

「ここでは、本番のために“さよなら”を言います。泣いてもいい。でも最後は、笑って終わる」

少年が立ち上がる。

「……さよなら。きみのこと、忘れない」

声は震えていた。
けれど、言い終えると、ぎこちなく口角を上げた。
泣きながら笑う顔は、どこか壊れかけの人形みたいで、それでも確かに前を向いていた。

拍手が起こる。

次はマフラーの女の子だった。

「さよなら。わたしは、わたしの道を行くね」

彼女は一度目を閉じてから、ぱっと笑った。
その笑顔は完璧で、少しだけ寂しそうだった。

順番が回ってきたとき、わたしの喉は固まった。
転校なんて平気だと思っていたのに、教室の匂いも、机の傷も、友だちの笑い声も、急に愛おしくなる。

「……さよなら」

言葉は、たったそれだけなのに、重かった。

「さよなら。ここで過ごした時間、ぜんぶ宝物です」

涙が落ちる。
視界がにじむ。
うまく笑えない。
唇がひきつる。

青年が言った。

「笑うのは、強がるためじゃない。未来に席を空けるためだよ」

未来に、席を空ける。

その言葉を胸の中で転がしてみる。
さよならは、終わりじゃなくて、椅子をひとつ空けること。
これから座る誰かや、これから出会う景色のために。

わたしは深く息を吸った。

「さよなら。ありがとう」

もう一度言い直す。
涙のまま、歯を見せる。
ぎこちなくても、確かに笑った。

拍手が、少しだけ温かく感じた。

練習会の帰り道、空はまだ明るい。
風は冷たいけれど、どこかやわらかい。
わたしは気づく。
さよならは、相手のためだけじゃない。
自分が前へ進むための合図なのだと。

数日後、本当の別れの日が来た。

教室の前で、友だちが泣いている。
わたしも、やっぱり泣いた。
でも最後に、練習したとおり、口角を上げる。

「さよなら。またね」

今度は、不思議と自然だった。

笑うと、胸の奥に小さな灯りがともる。
寂しさは消えないけれど、その隣に希望が座る。

電車が動き出す。
窓の外で、みんなが手を振っている。
わたしも振り返す。

さよならを笑って言う練習は、たぶん一生終わらない。
これからも、何度も別れは来るだろう。

それでも、そのたびに、未来のために席を空ける。

泣きながらでもいい。

笑って、言えるように。