わたしは物語の中の「ハッピーエンド」です。
本当は最後のページで、祝福の光みたいに現れて、恋人たちを抱き合わせたり、世界を元に戻したりする役目でした。
けれどある日、くしゃみみたいな校正ミスが起きて、わたしは物語の途中に落ちてしまったのです。
そこは、まだ誰も救われていない章でした。
主人公の凪(なぎ)は、世界の端まで伸びる階段をのぼっていました。
階段の上には、消えてしまった妹の声があると信じて。
物語は七割ほど進んでいて、空は灰色、希望は薄く、読者の胸も少し痛むころ。
わたしはページの余白から転がり出て、凪の足元にぶつかりました。
「だれ?」
凪は驚いた顔でわたしを見ました。
わたしは透明で、まだ形を持たない光のかたまりでした。
「わたしは……ハッピーエンド。でも、迷子なの」
「ハッピーエンドが、途中にいるの?」
「うん。本当は最後にいなくちゃいけないのに」
凪は少し考えて、それから小さく笑いました。
「じゃあ、ぼくはまだ救われないってこと?」
その問いに、わたしは答えられませんでした。
だって、わたしは“結果”であって、“過程”じゃない。
わたしが早く来すぎれば、物語は浅くなってしまう。
凪は階段に腰をおろしました。
「妹はね、ぼくをかばって消えたんだ。だからぼくは、ちゃんと最後までのぼるって決めた。もし途中でハッピーエンドが来たら、それは本物じゃない気がする」
その言葉で、わたしの輪郭が少しだけ揺れました。
ああ、そうか。
わたしは、誰かの決意のあとにしか立てない。
わたしは凪のとなりに座り、灰色の空をいっしょに見上げました。
途中のページには、途中の色がある。
痛みも、迷いも、必要なインクなのだと、わたしは初めて知りました。
「ねえ、ハッピーエンド」
「なあに?」
「最後で、妹に会えるかな」
わたしは少しだけ未来をのぞきました。
本当は、最後のページのことは覚えているはずなのに、迷子になったせいで、そこだけが白紙になっていました。
「わからない。でもね」
わたしは凪の手を、光でそっと包みました。
「きみがのぼりきった先に立つのは、きっと“本物のわたし”だよ。迷子じゃない、ちゃんと選ばれたハッピーエンド」
凪は立ち上がり、もう一度階段を見上げました。
足取りは重いけれど、目はまっすぐでした。
わたしは自分の居場所に気づきました。
途中にいてはいけない。
けれど、途中を知らなければ、最後にはなれない。
わたしは光の粒になって、ページの隙間へ戻りました。
凪の背中が小さくなっていく。
階段は長く、空はまだ灰色。
けれど物語は、確かに進んでいる。
そして最後のページ。
凪は階段のてっぺんで、妹の声に再会しました。
けれどそれは、昔の姿ではありません。
妹は世界そのものになって、風となり、光となり、凪を包みました。
「ありがとう」
その言葉が響いたとき、わたしは迷子ではなくなりました。
わたしは派手な奇跡ではありません。
失われたものがそのまま戻るわけでもない。
けれど凪は、泣きながら笑っていました。
失ったものを抱えたまま、それでも前を向く、その顔こそが——
わたし。
ページは静かに閉じられます。
読者の胸の奥に、小さなあたたかさを残して。
迷子だったハッピーエンドは、ようやく自分の場所へ帰ったのでした。


