その街には、ときどき未来をくすぐる風が吹く。
それは天気予報にも載らないし、洗濯物も揺らさない。
ただ、人の胸の奥だけを、ふっと撫でていく。
くすぐられた人は、まだ見ぬ出来事の輪郭を、ほんの少しだけ感じ取るのだ。
風の配達人は、街のはずれの古いアパートに住んでいた。
名をリオという。年齢は決まっていない。
昨日は十七歳に見え、今日は三十代に見える。
未来を扱う者は、時間に正確であってはいけないのだと、彼は笑う。
リオの仕事は、まだ芽吹いていない未来に、そっと風を届けることだった。
未来は重たい。
生まれる前の出来事は、たいてい不安やためらいに包まれている。
だから少しだけ、くすぐってやる必要がある。
たとえば、絵を描くことをあきらめかけている少女の窓辺に、風を送り込む。
風はカーテンを揺らさない。
ただ、彼女の指先をくすぐる。
すると彼女は理由もなく、古いスケッチブックを開く。
そこに描かれた一枚が、数年後、誰かの孤独を救う絵になる。
たとえば、遠くの街へ行こうか迷っている青年の背中に、風を当てる。
風は背中を押さない。
ただ、肩甲骨のあたりを、くす、と撫でる。
青年はくしゃみをして、それから唐突に笑い出す。
笑いながら、切符を買う。
やがてその選択が、別の誰かの未来と絡み合って、新しい物語を生む。
風は強すぎてはいけない。
未来は、押されて決まるものではないからだ。
ある夜、リオは配達簿の最後の一行に目を止めた。
「自分自身へ」
そんな依頼は初めてだった。
未来をくすぐる者は、自分の未来には触れない。
それが暗黙の決まりだった。
リオは迷った。
彼の未来は、配達人をやめる未来かもしれない。
あるいは、誰にも風を届けられなくなる未来かもしれない。
くすぐれば、何かが変わる。
だが変わった先が、今よりやさしいとは限らない。
それでも彼は、夜明け前の屋上に立った。
街はまだ眠っている。
遠くで新聞配達のバイクの音がする。
リオは深く息を吸い込み、胸の奥に溜めていた小さな風を、そっと解き放った。
風は彼の頬をかすめ、喉元を撫で、心臓のあたりをくすぐった。
くすぐったくて、少し泣きたくなる。
そのとき、彼は初めて、自分が未来を怖れていたことに気づいた。
配達人であるあいだ、彼は他人の可能性ばかりを見て、自分の可能性から目を逸らしていたのだ。
風は問いかける。
――きみは、どんな未来に笑いたい?
リオは答えを持っていなかった。
ただ、胸の奥があたたかくなっていくのを感じた。
それは決意というより、許しに近い感覚だった。
やがて朝日が昇る。
街の屋根を淡く染めながら、目に見えない風が、あちこちで人の胸をくすぐっていく。今日も誰かが、理由のない予感に背中を押されるだろう。まだ名前のない未来が、そっと笑い出すだろう。
リオは配達簿を閉じる。
次の行には、もう何も書かれていない。
けれど彼は知っている。未来は空白のほうが、よく育つ。
だから彼は歩き出す。
風を抱えて。
まだくすぐられていない、誰かの明日へ。


