ここではない、どこかへ

面白い

その場所へ行く方法は、地図にも時刻表にも載っていなかった。
ただ、「ここではない、どこかへ行きたい」と強く思ったときにだけ、道がひらくのだと噂されていた。

駅でも、扉でも、鏡でもない。
夕暮れの境目、街の輪郭が少し曖昧になる時間帯に、世界の継ぎ目は現れる。
私はそれを、たぶん三度目に見つけた。

会社帰り、信号待ちの横断歩道だった。
アスファルトの向こう側が、わずかに揺れていた。
熱気のせいではない。
風もないのに、空間そのものが呼吸しているようだった。

——行く?

誰かの声がした気がした。
けれど周囲には誰もいない。
信号は赤のまま、車も来ない。
世界が、私だけを残して一瞬止まったようだった。

足を踏み出すと、地面の感触が変わった。
硬さも重さも失い、代わりに懐かしさだけがあった。
名前を思い出せない場所の記憶。子どもの頃に見た夢の続き。
置いてきたはずの感情。

そこは「どこか」だった。

空は低く、色は言葉にできない。
街のようで街ではなく、人がいるのに誰もこちらを見ない。
時計はすべて違う時間を指していて、それでも不思議と不安はなかった。

ここに来る人は皆、「ここではない場所」を求めていたのだと、私は直感的に理解した。
失ったもの、選ばなかった未来、言えなかった言葉。
そのどれかを胸に抱えて。

通りの角で、ひとりの少年が紙飛行機を折っていた。
私と目が合うと、少し困ったように笑った。

「帰る?」

その問いは、責めるでも誘うでもなかった。
ただ選択肢として、そこに置かれていた。

私はしばらく考えた。
ここは優しい。
何も決断しなくていい。
失敗も後悔も、輪郭を失って溶けていく。
でも同時に、ここでは何も始まらないのだとも分かっていた。

「……まだ」

そう答えると、少年はうなずいて、紙飛行機を空へ放った。
飛行機は途中で消え、代わりに夕焼けだけが残った。

次の瞬間、私は横断歩道に立っていた。
信号は青に変わり、人々が歩き出す。
さっきまでの「どこか」は、もう見えない。

それでも胸の奥に、確かな感触が残っていた。
逃げ場所ではなく、可能性としての「どこか」。

私は歩き出す。
ここではない場所へ行くために、まずはもう一度、ここに戻るために。

あの場所は、きっとまた現れる。
必要になったときにだけ。