影が先に帰った日

面白い

その日、私は自分の影に置いていかれた。

夕方、駅前の交差点で信号を待っていたときだった。
西日に伸びるはずの影が、足元に見当たらない。
代わりに、少し先の歩道を、私と同じ形をした黒い輪郭が、早足で進んでいくのが見えた。

「待って」

声を出したつもりだったが、喧騒に吸い込まれて消えた。
影は振り返らない。
まるで、もう帰る時間だと知っているかのように、迷いなく角を曲がっていった。

私はしばらく立ち尽くしていた。
影のない身体は、思ったよりも軽く、不安定だった。
地面に繋ぎ止められていない感じがして、足が浮くのではないかと怖くなった。

家までの道を、影のいないまま歩いた。
街灯が灯っても、私の足元は妙にすっきりしていた。
人とすれ違うたび、視線が私の背後を素通りしていく気がした。
存在が少し薄くなったような、そんな感覚。

玄関を開けると、先に帰った影が、きちんとそこにいた。
壁に寄り添い、私が帰るのを待っていたかのように、静かに揺れている。

「どうして先に帰ったの?」

問いかけると、影は答えない。
ただ、少しだけ形を歪めた。
それは、ため息のようにも、諦めのようにも見えた。

私は影の隣に座り込んだ。
今日一日、何を思っていたかを振り返る。
言えなかった言葉、引き返した決断、先延ばしにした約束。
影はいつも、それらを黙って引き受けてくれていた。
私が立ち止まるたび、長く伸びて、背中を支えてくれていた。

もしかすると、影は疲れてしまったのかもしれない。
私が進まないあいだ、先に帰ることを選んだのだ。

「ごめん」

そう言うと、影は少しだけ濃くなった気がした。

その夜、私は影と並んで眠った。
電気を消しても、完全には溶けず、そこにいるとわかる距離で。

翌朝、カーテンを開けると、影はいつもの位置に戻っていた。
足元にぴたりと重なり、何事もなかったかのように。

ただ一つ違ったのは、影が少しだけ前に伸びていたことだ。

まるで、「今日はちゃんと歩こう」と言っているみたいに。

私はその影を踏まないように、でも見失わないように、ゆっくりと外へ出た。
影が先に帰らなくてもいい日を、少しずつ増やしていくために。