ひとつ少ない世界

面白い

この世界には、いつも何かがひとつ足りなかった。
それが何なのか、誰も正確には言えない。
ただ、人々は朝起きた瞬間に、胸の奥に小さな空白を感じる。
その空白は、思い出そうとすると指の間からこぼれ落ちる砂のように、形を持たない。

街には信号機があるが、色は二つしかない。
止まるか、進むか。
その間にあるはずの迷いの色は、最初から存在しなかった。
音楽には必ず一音足りず、どんな旋律も最後にわずかな違和感を残して終わる。
完成しきらないのに、それが普通だと誰も疑わない。

僕は「欠けたもの」を記録する仕事をしている。
正確には、欠けていると“感じられた痕跡”を集める仕事だ。
役所の奥にある小さな部屋で、日々、人々の報告書を読む。

「大切な人の名前を呼ぼうとすると、舌が止まる」
「昔好きだった歌のサビだけ思い出せない」
「理由もなく泣きそうになる夜がある」

それらはすべて、ひとつ少ない世界の副作用として処理され、ファイルに綴じられる。

ある日、白紙に近い報告書が届いた。
そこには一行だけ、こう書かれていた。

――私は、世界から私を引いた結果を、毎日生きています。

意味がわからず、僕は提出者を呼び出した。
現れたのは、名札に名前が書かれていない女性だった。

「名前が、ないんですか」と聞くと、彼女は少し困ったように笑った。
「たぶん、それが“ひとつ少ない”んだと思います」

彼女の話によれば、ある朝目覚めたとき、自分の名前だけが世界から抜け落ちていた。
呼ばれないわけでも、忘れられたわけでもない。
ただ最初から、存在しなかったかのように。

「名前がないと、驚くほど静かです」と彼女は言った。
「呼ばれることがない。期待も、役割も、少し軽くなる。でも……」

彼女は言葉を切り、胸に手を当てた。
「その分、世界とつながる糸も一本、切れてしまう」

その瞬間、僕は理解してしまった。
この世界で“ひとつ少ない”のは、物や概念ではない。
人と世界を結ぶ、最後の確認――「ここにいる」という確信だ。

名前、三つ目の信号、最後の音、言い切れない感情。
それらはすべて、世界が私たちを完全に肯定するための部品だった。

彼女は立ち上がり、静かに言った。
「もし、この世界が元に戻るなら。私は、また呼ばれますか?」

答えられなかった。
僕自身もまた、何かを失っている気がしていたからだ。

彼女が去った後、机の引き出しを開けると、見覚えのないファイルがあった。
表紙には、僕の字で、こう書かれている。

――欠けた“あなた”について。

その中身は、すべて白紙だった。
だが、不思議と恐くはなかった。

ひとつ少ない世界でも、人は生きていける。
ただ、夜になると、理由のない寂しさが訪れるだけだ。

それは、いつか取り戻すために残された、余白なのかもしれない。