一日一文字、忘れていく

不思議

その日記帳は、最初から少しおかしかった。
表紙は無地で、いつ買ったのかも覚えていない。
けれど、机の引き出しを開けたとき、そこにあるのが自然に思えたから、私は何も考えずに使い始めた。

一日目。
「今日は新しい日記を書き始めた。特別なことはなかったけれど、窓から入る風が少しだけ春の匂いだった。」

二日目。
同じページを読み返して、私は首をかしげた。
「今日は新しい日記を書き始めた。特別なことはなかったけれど、窓から入る風が少しだけ春の匂いだっ」
最後の「た」が、消えていた。

消しゴムを使った覚えはない。
インクが薄いわけでもない。
ただ、最初からそこに存在しなかったかのように、文字が一つ減っていた。
気味が悪いと思いながらも、私はそのまま二日目の文章を書き足した。

三日目、また一文字減った。
四日目も。
減るのは、必ず一日につき一文字だけ。
どの文字が消えるかは選べず、文章の最後から静かに、確実に失われていく。

やがて、日記は奇妙なリズムを持ち始めた。
昨日まで確かにあった言葉が、今日は途中で途切れている。
意味は通じるが、どこか息苦しい。
まるで、記憶を語る声が、少しずつ弱くなっているようだった。

私は不安になり、文字数を増やすことにした。
たくさん書けば、減っても問題ないはずだと思ったのだ。
嬉しかったこと、嫌だったこと、子どもの頃の思い出、どうでもいい空の色まで、ぎっしり書いた。

けれど、減る速度は変わらなかった。
一日一文字。淡々と、平等に。

ある日、気づいてしまった。
消えているのは、ただの文字ではない。
文章が短くなるにつれ、私はその出来事を思い出しにくくなっていた。
春の匂いが、どんな匂いだったのか。
誰と話して笑ったのか。
日記を読んでも、頭の中に像が浮かばない。

試しに、日記に書かなかった出来事を思い返してみた。
こちらは、問題なく思い出せる。
つまり、減っているのは日記の文字だけではなく、そこに閉じ込めた記憶そのものだった。

私は書くのをやめた。
それでも、日記は勝手に減っていった。
白紙だったはずのページに、いつの間にか書かれていた過去の文章が、毎日一文字ずつ消えていく。

最後に残ったのは、たった一行だった。
「私はここにいる」

翌日、その行は
「私はここにい」
になり、
「私はここ」
になり、
「私は」
になった。

そして、完全に白紙になった朝、私は日記帳を閉じた。
自分が何者だったのか、なぜこの部屋にいるのか、思い出せない。
それでも、不思議と恐くはなかった。

机の引き出しを開けると、新しい日記帳があった。
無地の表紙。
見覚えはないが、そこにあるのが自然に思えた。

私はペンを取り、最初の一行を書き始めた。
「今日は、新しい日記を書き始めた。」