駅前のカフェ「ミレット」は、冬になると湯気で窓が白く曇る。
外では吐く息が白く舞い、コートの襟を立てた人々が足早に通り過ぎていく。
そのガラス越しに、真理は両手で包んだマグカップを見つめていた。
中身は、コーンポタージュ。
スープの表面を小さな泡がくすぐり、甘い香りがふんわりと鼻をくすぐる。
「今日も、それなんですね」
カウンターの奥からマスターが笑う。
「ええ、これを飲むと、なんだか落ち着くんです」
真理は微笑みながら答えた。
彼女がこのカフェに通い始めたのは、ちょうど一年前の冬だった。
大学の卒業制作が思うように進まず、心がぐちゃぐちゃに絡まっていた時期。
ある日の帰り道、雪混じりの風に追われるようにして入ったのがこの店だった。
そのとき、マスターが差し出したのがコーンポタージュだった。
「疲れた顔をしてたからね。これで少し温まりなさい」
そう言って出されたスープは、驚くほど優しい味だった。
舌の上でとろりと溶け、冷え切った心をじんわりと包み込んでくれた。
「家で作ると、なんだか違うんですよね」
真理が言うと、マスターはおかしそうに眉を上げた。
「うちのは、とうもろこしをすりつぶしてから一晩寝かせてる。甘みが出るんだ」
「手間がかかるんですね」
「手間をかけた分だけ、心が伝わるんですよ」
その言葉を聞いたとき、真理の胸に何かがすっと入ってきた。
彼女はその夜、家に帰って卒業制作のキャンバスを見つめた。
描きかけの風景画。
色はあるのに、温度がなかった。
「私の絵にも、心を伝える“手間”が足りないんだ」
そう気づいて、筆を取った。
春が来る頃、真理の作品は完成した。
タイトルは「ぬくもり」。
雪の街角で、二人が手をつなぎ、白い湯気を上げるスープカップを分け合っている絵だった。
卒業後、真理はデザイン事務所に就職し、忙しい日々に追われるようになった。
それでも時々、「ミレット」に顔を出した。
マスターは変わらずコーンポタージュを出し、何も言わずに見守ってくれた。
そんなある冬の日、店のドアに「今月で閉店します」という張り紙が貼られた。
真理は胸がぎゅっと縮まった。
「どうしてですか?」
「歳をとったからね。もう少し、畑でゆっくり過ごそうと思って」
「畑?」
「とうもろこしを育ててるんだよ。あのスープのもとは、あそこからなんだ」
真理は言葉を失った。
スープの甘みは、マスターの手だけでなく、土のぬくもりまで含んでいたのだ。
閉店の日、マスターは最後の一杯を出してくれた。
「これ、持って行きなさい」
手渡されたのは、小さなレシピノートだった。
表紙に「コーンポタージュ」とだけ書かれている。
「これを見れば、作れますか?」
「味は、作る人の心しだいだよ」
マスターは微笑んだ。
春、真理はそのノートを開き、自分のキッチンで鍋を温めた。
とうもろこしをすりおろし、牛乳を注ぎ、弱火でゆっくりとかき混ぜる。
甘い香りが部屋に広がり、いつかの記憶が蘇る。
カップに注ぎ、一口。
――少し違う。でも、ちゃんとあの味の影があった。
真理はそのままスケッチブックを開き、スープの湯気を描いた。
「心を伝える手間」を、絵にも、スープにも。
そして彼女は思った。
人のぬくもりとは、きっとコーンポタージュみたいなものだ。
時間と手間がかかるけれど、その分だけ、誰かの心をやさしく温める。
窓の外で雪が降りはじめた。
真理は湯気に包まれながら、小さくつぶやいた。
「マスター、今日もあの味ができましたよ」
――マグカップの中、黄色いスープがやさしく光っていた。


