夜の便だった。
羽田を出たのは午後八時すぎ。
窓の外はすでに黒く沈み、雲の上に浮かぶ月だけが機体の翼を銀色に照らしていた。
搭乗してから一時間ほど経ったころ、客室乗務員がドリンクを配り終えた。
周囲の客は眠ったり、映画を見たりしている。
私は読みかけの小説を閉じ、ふと外を見た。
その瞬間、背筋が凍った。
窓の向こう、雲の底をなぞるように、白い影がすべるのが見えたのだ。
最初は反射かと思った。
だが違う。
影は確かに形を持ち、何かが雲の中を這うように動いていた。
私は思わず隣の座席の女性に声をかけた。
「今、外に……何か見えませんでした?」
だが女性はイヤフォンを外し、眠たげに首をかしげるだけだった。
「外? 真っ暗ですよ」
そう言ってまた眠りに戻ってしまう。
気のせいかもしれない。
そう思い直そうとしたが、どうしても視線を窓から離せなかった。
雲の層が途切れた瞬間、またそれが現れた。
翼ほどの大きさをした、白くぼやけた何か。
人の形をしているようにも見えた。
顔はない。
ただ、こちらを見ているような感覚があった。
機内アナウンスが流れた。
「ただいま、軽い気流の乱れがございます。お手洗いのご利用はお控えください」
揺れが始まる。
機体が小刻みに震え、ライトが一瞬暗くなった。
その一瞬、窓の外が青白く光った。
稲妻だ、と思った。
だが、違った。
光の中で、無数の白い影が雲の中を渦を巻くように動いていた。
心臓が早鐘を打つ。
私は立ち上がり、通路を進んで後方のトイレ近くまで行った。
そこには夜勤明けらしい男性客が立っており、私の顔を見て怪訝そうに眉をひそめる。
「どうかしました?」
「窓の外に……人みたいな影が」
「人? まさか。ここは一万メートルの上ですよ」
そう笑う彼の背後で、機体がぐらりと傾いた。
乗客の悲鳴が上がる。
ライトが再び明滅し、空気が急に冷えた。吐く息が白くなった。
異常だ。
冷房のせいではない。
まるで機内そのものが氷の中に沈んだような冷たさだった。
天井の非常灯が赤く瞬く。
ふと視線を上げると、通路の先、機内のドアの前に――白い人影が立っていた。
足は床に触れていない。
ふわりと浮いている。
顔のようなものはなく、ただ空洞のように黒い。
誰かが「見えるか?」と小さく呟いた。
声は、耳元ではなく、頭の中に直接響いた。
私の全身が凍りついた。
逃げようにも、足が動かない。
ドアの向こうから、外気のうなりが聞こえる。
ありえない。
飛行中の機体で、外の風が聞こえるはずがない。
それがじりじりと近づいてくる。
ドアが、わずかに開いた。
金属の軋む音。
次の瞬間、風が吹き抜け、紙コップや毛布が宙を舞った。
私は必死にシートにしがみついたが、目の前を通り抜けるように、あの白い影が私の体をすり抜けていった。
そのとき、耳の奥で誰かが囁いた。
「まだ落ちている途中なんだ……」
激しい衝撃。視界が白く弾けた。
――目を覚ますと、私は座席にいた。
機内は静かで、ライトは通常通り。
隣の女性が不思議そうに私を見ている。
「大丈夫ですか? すごくうなされてましたよ」
時計を見ると、あと十五分で着陸らしい。
夢だったのか、と安堵の息を吐いた。
窓の外には、夜明け前の街の灯が見える。
しかし、その窓の端に――指先の跡のような白い手形が、外側からべっとりとついていた。
外気はマイナス四十度の世界。
そのはずなのに、手形はじわじわと水滴を垂らしていた。
私は息を呑み、視線を逸らせずにいた。
その手形の向こう、薄明の空を裂くように、白い影がひとつ――まっすぐ機体を追ってきていた。


