かつて東京の一等地でフレンチの名店を構えていた料理人・吉村誠一(よしむら せいいち)は、突然すべてを捨てて故郷の秋田に戻った。
その理由を誰にも語ろうとしなかったが、彼にはひとつだけ、譲れない想いがあった。
「本物の醤油を使いたい」
誠一が最後に店を閉めた夜、彼は厨房の片隅に置かれた一本の醤油瓶を見つめていた。
それは亡き父が遺した手作りの醤油だった。
樽に三年寝かせ、火入れせずに瓶詰めされたその醤油は、一般に流通するどんな高級品よりも深く、複雑な香りを放っていた。
父・吉村良平は、町の小さな蔵で醤油を作り続けた職人だった。
商業的には成功しなかったが、誠一は幼いころからその味を知っていた。
フランスで修業を積んだ彼にとって、素材の「真実」を知ることが料理の核心だった。
そして父の醤油は、まさに「真実」の味だった。
「この味がなければ、俺の料理は完成しない」
だが父の死後、蔵は閉じられ、技術の継承者もいなかった。
唯一残されたのは、瓶に半分だけ入った最後の醤油。
誠一はその味を再現するため、すべてを投げうって再び秋田の地を踏んだ。
町の人々は彼を奇異の目で見た。
都会で成功した男が、なぜ今さら醤油作りなどに執着するのか。
だが誠一は答えなかった。
毎朝五時に起き、父が使っていた古い木桶を洗い、麹を育て、丸大豆と小麦を蒸しては、ひとり黙々と仕込みを重ねた。
だが、うまくいかない。
発酵は暴れ、味は不安定。
理屈では説明できない“勘”の部分が、どうしても埋められない。
半年が経ち、誠一は焦り始めた。
「このままじゃ、父に追いつけない…」
ある日、近くの農家から届けられた大豆を見て、誠一はふと気づいた。
色も形も、どこか違う。父が使っていたのは、もっと小さく固い、在来の黒大豆だったはずだ。
「原料から違っていたのか…」
誠一は町の古老たちを訪ね歩き、父の仕入れ先、原料の品種、麹菌の出どころまですべてを洗い直した。
わずかに残されていたメモ帳と、かつて父と一緒に蔵で働いていた老人の記憶を手がかりに、ついに彼は父の配合にたどり着いた。
三年後。
新しい醤油が初めて搾られた日、誠一は小さな盃にその液体を注ぎ、静かに鼻を近づけた。
「……これだ」
涙が頬を伝った。
それは記憶の奥にある味、父の背中とともにあった香りだった。
彼はその醤油を持って、再び料理の世界へと戻ることはしなかった。
代わりに、町に小さな食堂を開いた。
メニューは少ない。
卵かけご飯、焼き魚、漬物と味噌汁。
ただし、すべてにあの醤油が使われている。
ある日、都会から訪れた若い料理人が言った。
「こんな醤油、食べたことがない。どうやって作ったんですか?」
誠一はただ微笑んで答えた。
「三年と、ひとしずくの想いさ」