田辺(たなべ)清志(きよし)は五十代の独身男性だった。
長年、区役所の窓口業務に勤め、最近ようやく早期退職を決めた。
理由は「やりたいことを見つけたからです」としか周囲には言わなかったが、実のところ、それは――アルマジロだった。
初めてアルマジロを見たのは、十年前の動物園だった。
子ども連れの友人に誘われ、なんとなく付き添いで訪れたその場所で、清志はひと目で心を奪われた。
丸くて、硬くて、でもちょこちょこ歩いて、時々くるっと丸くなる。
無言で、無愛想そうに見えるのに、なぜかほっとする。
まるで、長年の自分を見ているようだった。
その日から、清志はアルマジロのことが頭から離れなくなった。
仕事の昼休みにスマホでアルマジロの動画を見るようになり、アルマジログッズを通販で集め始めた。
アルマジロ柄の靴下、キーホルダー、果ては手作りの陶器まで――職場の人には「ちょっと変わってる」と笑われたが、清志にとってアルマジロは唯一、心の拠り所だった。
退職してからというもの、清志は「本物のアルマジロと暮らしたい」と思い始めた。
日本ではペットとしての飼育は難しいと知っていたが、それでも諦められなかった。
どうしても、自分の手で、あの丸い背中を撫でてみたかった。
ある日、清志はネットの掲示板で「保護されたアルマジロの里親を募集しています」という記事を見つけた。
場所は沖縄県のとある自然保護センター。
外来種として密輸されたものの、飼育許可の問題で一般譲渡は困難だという。
だが、長期ボランティアとして働きながら、動物たちの世話をすることは可能らしい。
清志は即座にメールを送り、面談を経て、数週間後には沖縄の青い空の下にいた。
保護センターには、十匹ほどのアルマジロがいた。
すべて違法輸入で押収された個体だったが、いずれも元気で、土の上を元気に走り回っていた。
最初は警戒されていたが、清志は毎日地道に世話を続けた。
餌を与え、掃除をし、温度管理を怠らず、何より、名前をつけて一匹一匹に話しかけた。
特に心を通わせたのは、一匹の老いたアルマジロだった。
背中の甲羅に傷があり、他の個体よりも動きが遅い。
清志はその子を「まる」と名づけた。
「おはよう、まる。今日もいい天気だよ」
そう声をかけると、まるは鼻をくすぐるように土を掘り返し、やがて清志の足元にちょこんと寄ってくるようになった。
清志はまると共にいる時間が、何よりも大切になっていた。
以前のような孤独を感じなくなった。
夜にふと目が覚めても、風の音の中に小さな足音を想像するだけで、安らぎが胸に広がった。
数ヶ月後、まるの体調が悪くなった。
食欲がなくなり、動きも鈍くなった。
清志は何度も獣医に相談し、温度や湿度を調整し、手から餌を与え続けた。
ある朝、まるは静かに眠るように、動かなくなった。
清志は泣いた。声を上げて泣いた。
まるの丸まった背中に顔をうずめ、何度も何度も「ありがとう」と呟いた。
それから数日後、センターの職員が清志にこう言った。
「他の子たちも、あんたに懐いてる。
ここに残って、ずっとアルマジロの世話をしてくれないか?」
清志は迷わずうなずいた。
今では、清志は「アルマジロのおじさん」として地元の子どもたちに親しまれている。
週末には見学に訪れる親子に、アルマジロの話をしてあげる。
アルマジロが好きで、人生が変わった人間の話を。
清志は今日も、土の上で丸くなる新入りの小さな背中を優しく撫でながら、心の中でまるに語りかける。
「おかげで、俺は今、とても幸せだよ」