静かな午後、陽の光が古びたアパートの一室に柔らかく差し込んでいた。
藍原美月(あいはら・みづき)は、お気に入りの白いカップにルイボスティーを注ぐ。
赤みがかった透明な液体が湯気を立てるのを見つめながら、彼女はふっと息を吐いた。
「やっぱり、この香りが落ち着くな」
美月は小さな出版社で働く編集者だった。
日々の喧騒と締切に追われる生活の中で、ルイボスティーだけは彼女にとっての聖域だった。
カフェインがなく、どこか土の匂いが混じる優しい味。
忙しい日々でも、これを一口飲むだけで心が整う気がした。
毎日午後三時、美月は机の隅に置いた電気ポットでお湯を沸かし、マグカップとティーバッグを用意する。
これが彼女の「休息の儀式」だった。
けれど、その日は少しだけ違っていた。
郵便受けに入っていた一通の手紙。
差出人は「藍原 宗司(そうじ)」――知らない名前ではない。
彼女の父だった。
十年以上会っていない父親。
離婚後、母に引き取られた美月にとって、父は「いない人」として記憶の隅に追いやられていた。
手紙の文面は短く、病を患っていること、会いたいこと、そして「お前の好きだったルイボスティーを飲んでいるよ」と添えられていた。
あれほど嫌っていた人間の言葉に、どうして胸が締め付けられるのか、自分でも分からなかった。
数日悩んだ末、美月は実家のある長野に向かう決意をした。
山あいの町にある父の家は、小さな平屋だった。
玄関を開けると、懐かしい土と木の匂いに混じって、確かにルイボスティーの香りが漂っていた。
「美月か……大きくなったな」
声の主はやせ細った中年の男――だが、その目だけは昔と変わらなかった。
無骨で不器用、でもどこか優しさを含んだ目。
「……久しぶり。突然手紙なんか送ってきて、どうしたの?」
「お前が、来てくれるかどうか分からなかった。でも……ルイボスティーなら、まだ好きだろうと思ってな」
父はテーブルの上に二つのカップを置いた。
彼もまた、美月と同じ銘柄のルイボスティーを淹れていた。
「これ……昔、母さんがよく飲んでたやつだよね」
「そうだな。お前が小さい頃、一緒に飲んでた。嫌なことがあると、決まって『お茶しよ』って」
二人は言葉を交わしながら、少しずつ距離を縮めていった。
美月の心にあった怒りや戸惑いは、湯気とともに薄れていくようだった。
父は数年前に再婚もせず、独りで暮らしていた。
病は重く、余命もそう長くはないらしい。
「お前に嫌われたまま死ぬのは、やっぱりつらくてな」
その言葉に、美月は答えを返せなかった。
ただ、黙ってカップを持ち上げた。
「……ありがとう。来てよかったよ」
そして、数日後。
美月は東京に戻る電車の中で、ふとカバンに手を伸ばした。
中には父が最後に渡してくれた小さな缶があった。
「これが一番うまいんだ」と言っていた、南アフリカから取り寄せたルイボスティーの茶葉。
自宅に戻った彼女は、いつものようにお湯を沸かし、その茶葉を急須に入れた。
その香りは、不思議と懐かしく、優しかった。
過去のわだかまりを完全に許せたわけではない。
けれど、美月の中で何かが変わり始めていることは確かだった。
そして今日もまた、午後三時。
彼女はルイボスティーを飲みながら、新しい原稿に目を通していた。
その机の隅には、父の家から持ち帰ったもう一つのカップが、静かに置かれていた。