回鍋肉の縁

食べ物

田中陽介(たなかようすけ)は、どこにでもいる普通のサラリーマンだった。
都内の中小企業に勤め、毎日決まった時間に起き、満員電車に揺られ、会社と家を往復する日々。
特別な趣味もなく、仕事もそれなりにこなしていたが、どこか物足りなさを感じていた。
そんな彼には、ひとつだけ譲れないこだわりがあった。
それは回鍋肉(ホイコーロー)だった。

陽介が回鍋肉に出会ったのは、小学生の頃。
母親が近所の中華料理店から持ち帰ってきた弁当のおかずとして、初めて口にした。
甘辛い味噌の香りが口いっぱいに広がり、シャキシャキのキャベツとジューシーな豚肉が絶妙に絡み合う。
「これはなんだ!」と子供ながらに衝撃を受け、それ以来、回鍋肉は彼の「人生最高の一品」となった。

学生時代も、社会人になってからも、陽介はとにかく回鍋肉を求めた。
中華料理店に入れば迷わず回鍋肉定食を頼み、スーパーで回鍋肉の素を見かければ必ずストックした。
旅行先でも、地元の中華料理店を巡り、「その土地の回鍋肉」を堪能するのが彼の密かな楽しみだった。

そんな陽介の人生に転機が訪れたのは、会社帰りのことだった。
いつも通る道に新しくできた中華料理店「福源楼(ふくげんろう)」の看板が目に入った。
ふとメニューを見ると、そこには堂々と「特製回鍋肉」の文字が。
陽介は心躍らせながら店に入り、席に着くと迷わず注文した。

待つこと数分。運ばれてきた回鍋肉は、まるで芸術品のようだった。
艶やかな甜麺醤(テンメンジャン)が絡んだ豚肉と、鮮やかなキャベツのコントラストが美しい。
一口食べると、甘みとコクのある味噌の風味が広がり、絶妙な火加減で仕上げられた野菜の食感が楽しめる。
「これは……今までで一番うまい!」

「お口に合いましたか?」

ふと顔を上げると、そこには店主らしき若い女性が立っていた。
彼女は李美玲(り・めいりん)と名乗り、中国の四川省出身で、祖父の代から続く料理の技を受け継いでいるという。

「あなた、よっぽど回鍋肉が好きみたいですね」

「ええ、人生で一番好きな料理です」

「それは嬉しいわ。この回鍋肉は、私の祖父が考案した秘伝の味なのよ」

陽介は、彼女の言葉に感動した。
これほどまでに完璧な回鍋肉には、やはり深い歴史とこだわりがあるのだと知ったからだ。

それ以来、陽介は週に何度も「福源楼」に通うようになった。
美玲と話すうちに、彼女が「本場の味をもっと多くの人に知ってほしい」と願っていることを知る。

「でも、なかなかお客さんが増えなくてね。もっと多くの人に食べてもらいたいんだけど……」

陽介は考えた。
これほど美味しい回鍋肉を、自分だけが楽しむのはもったいない。
彼は仕事で培ったマーケティングの知識を活かし、「福源楼」の宣伝を手伝うことを決意する。

SNSで回鍋肉の魅力を発信し、美玲のこだわりを伝える記事を書き、地元のグルメイベントにも出店できるように手配した。
すると、少しずつ店の評判が広まり、回鍋肉を求める客が増えていった。

そして半年後、「福源楼」は地域で評判の中華料理店となり、陽介の努力が実を結んだ。

ある日、美玲が照れくさそうに話しかけてきた。

「陽介さん、本当にありがとう。あなたのおかげで、お店がたくさんの人に知ってもらえたわ」

「いや、僕はただ好きな回鍋肉を応援したかっただけさ」

「でもね……私はあなたが来るのが、一番嬉しかったの」

美玲の言葉に、陽介は驚いた。
しかし、その言葉を聞いて初めて、自分の中に芽生えていた気持ちに気づいた。
回鍋肉をきっかけに始まったこの関係は、いつしか彼にとって何よりも大切なものになっていたのだ。

そして、陽介は決心した。

「これからも、美玲さんの回鍋肉を食べ続けてもいいかな?」

美玲は、ふわりと微笑んだ。

「もちろん。ずっと、ね」

回鍋肉が結んだ縁は、ただの料理の枠を超え、二人の人生を変えた。
陽介にとって回鍋肉は、単なる好物ではなく、人生の転機となる大切なものだったのだ。
それから数年後、「福源楼」はさらに繁盛し、陽介と美玲は夫婦として店を切り盛りすることになった。
店の看板メニューはもちろん、あの「特製回鍋肉」。
今日もまた、新たな回鍋肉好きが、この味に恋をするのだった。