朝霧が立ち込める深い森の奥に、小さな村があった。
そこに住む少年・タクは、母を亡くし、木こりの父と二人で暮らしていた。
父は寡黙な男で、いつも仕事に追われ、タクはひとり森を駆け回って遊ぶことが多かった。
ある日、タクは森の奥で傷ついた白い鹿を見つけた。
その鹿は、神の使いとされる「白鹿」だった。
体には深い傷があり、血が赤い花のように地面を染めていた。
タクは驚きつつも、そっと鹿に近づき、持っていた布を裂いて傷口を覆った。
「大丈夫だよ、怖くないよ」
タクは優しく囁きながら、鹿のそばに座った。
鹿は怯えたように大きな瞳でタクを見つめたが、やがて安心したように目を閉じた。
タクは鹿を村に連れて帰ることはできないと思い、近くの洞穴を見つけてそこにかくまうことにした。
父に見つかれば、村の掟に従い、白鹿は「神の使い」として祀られなければならない。
それはつまり、村の祭壇に捧げられるということだった。
タクは何日もこっそり森に通い、鹿の世話をした。
鹿は次第にタクに心を開き、名前を呼ぶと首を傾げたり、優しく鼻を擦り寄せてきたりするようになった。
タクはその鹿を「シロ」と名付けた。
ある夜、村に異変が起こった。
突然、夜空が赤く染まり、黒煙が立ち上ったのだ。
村が火に包まれ、獣のような叫び声が響いた。
隣村の盗賊たちが襲撃してきたのだった。
タクは急いで父のもとへ駆けつけたが、家はすでに燃え落ち、父の姿は見当たらなかった。
恐怖に駆られたタクは無我夢中で森へ逃げ込んだ。その時、シロが現れた。
「シロ……!」
シロはタクの前に立ち、まるで導くように森の奥へと走り出した。
タクはその後を必死に追った。
やがてたどり着いたのは、かつてタクが知らなかった場所――森の奥深くにある、神秘的な湖だった。
湖面には月明かりが映え、静寂の中で水が揺れていた。
シロはその場で立ち止まり、タクを振り返った。
すると、湖の中央から青白い光が立ち昇り、一人の美しい女性の姿が浮かび上がった。
「よくぞここへ来た、人の子よ」
その声は静かでありながら、心の奥底に響くようだった。
「あなたは……?」
「私はこの森の守り手。お前が救った白鹿は、神の加護を受けし存在。お前が示した慈悲と勇気により、この森はお前を受け入れよう」
タクは驚きながらも、女性の言葉の意味を考えた。
するとシロが優しく鼻を鳴らし、タクのそばへ寄り添った。
「村が……襲われました。どうすれば……」
「お前の想いが試される時だ」
その瞬間、湖の光がタクを包み、彼の身体は温かさに満たされた。
すると、森の木々がざわめき、風が力強く吹き抜けた。
タクが振り返ると、村を襲っていた盗賊たちが次々と森の中へと引きずり込まれ、消えていった。
木々が彼らを捕らえ、深い地の底へと封じ込めているようだった。
やがて火の手は収まり、村は静寂を取り戻した。
タクが湖の方へ目を戻すと、女性の姿は消え、そこにはただシロが静かに立っていた。
「シロ……ありがとう」
タクはシロの首を抱きしめた。
シロは一度だけ短く鳴くと、ゆっくりと森の奥へと消えていった。
それから数年が経ち、タクは村の長となった。
森と村の間には新たな掟が定められ、村人たちは森を敬い、決してその神秘を侵さぬようになった。
タクは時折、森の奥へ足を運び、湖を訪れた。
そこには、まるで約束の証のように、白鹿の足跡が今もなお残っていた――。