美咲(みさき)は、都会の小さなマンションで一人暮らしをしていた。
仕事に追われる毎日で、気がつけば部屋には無機質な家具が並び、まるで仮住まいのような雰囲気だった。
ある日、会社帰りに立ち寄った花屋で、一輪のガーベラに目を奪われた。
鮮やかなオレンジ色が目に飛び込んできて、思わず足を止めた。
「この花、ください。」
気がつけばそう口にしていた。
店員は優しく微笑みながら花を包み、美咲に手渡した。
「花のある生活って素敵ですよね。」
その一言が、美咲の心に深く残った。
マンションに戻ると、ガーベラをグラスに挿し、食卓の上に置いた。
たった一輪の花だったが、部屋の雰囲気が一変したように感じた。
ふわりと広がる花の香りと、温かみのある色合いが、美咲の心に穏やかさをもたらした。
それからというもの、美咲は定期的に花屋へ足を運ぶようになった。
ガーベラ、チューリップ、ラナンキュラス……季節ごとに異なる花を選び、部屋に飾ることが楽しみになっていった。
花に水をやるひとときは、彼女にとって心を落ち着ける時間になった。
ある日、いつもの花屋で見慣れない男性と出会った。
彼もまた花を選んでいた。
「どんな花を探しているんですか?」
美咲が何気なく声をかけると、彼は少し驚いた表情を見せた後、恥ずかしそうに笑った。
「実は初めて花を買おうと思っているんです。友人が花のある生活って素敵だと言っていて。」
美咲は、自分が初めてガーベラを買ったときのことを思い出し、ふっと微笑んだ。
「それなら、このガーベラなんてどうですか? 元気が出る色ですよ。」
彼は美咲の勧めたオレンジ色のガーベラを手に取り、感謝の言葉を述べた。
それから彼と花屋で会うことが増えた。
名前は悠斗(ゆうと)といい、仕事のストレスを和らげるために花を飾るようになったのだという。
互いに好きな花を教え合い、気づけば休日に一緒にフラワーマーケットへ出かけるようになった。
美咲の部屋には、いつも花があった。
仕事で疲れて帰宅したときも、玄関に飾ったラベンダーの香りが迎えてくれる。
リビングのテーブルにはその季節の花が咲き、寝室には小さなスズランが並んでいた。
そして気がつけば、彼女の心も以前とは違っていた。
花のある生活が、日々の小さな幸せを感じるきっかけを与えてくれたのだ。
ある日、悠斗が言った。
「そろそろ、自分で育ててみるのはどう?」
美咲は目を丸くした。
「育てる?」
「うん。鉢植えの花なら、もっと長く楽しめるよ。それに、育てる喜びもある。」
その日、美咲は初めてラベンダーの鉢植えを買った。
水やりをしながら、少しずつ成長していくラベンダーを見るのが新たな楽しみになった。
季節は巡り、やがて美咲と悠斗は二人で花を育てるようになった。
小さなベランダには、色とりどりの花が咲き誇っていた。
かつては無機質だった部屋が、今では花々の香りと彩りに満ちている。
美咲は思った。
——花のある生活って、こんなにも心を豊かにするものなんだ。
そして、その生活を分かち合える誰かがいることが、さらに幸せを深めてくれるのだと、彼女は静かに微笑んだ。