田中陽一は、目玉焼きが大好きな男だった。
30歳を過ぎても独身で、都会の片隅で一人暮らしをしていた彼にとって、目玉焼きは単なる朝食ではなかった。
それは幼い頃、母が作ってくれた温かい記憶であり、大学時代に一人で自炊を始めたときの挑戦の象徴でもあった。
そして、疲れた日には自分を癒す「小さな幸せ」そのものだった。
陽一が特にこだわるのは、白身のふちがカリッと焼けた状態で黄身がとろりと流れる「完璧な目玉焼き」だ。
卵の鮮度、焼き加減、塩加減、さらには添えるトーストとのバランスまで、全てが陽一にとって重要なポイントだった。
目玉焼き一つでこれほどまでに幸せを感じられる自分は、もしかすると少し変わっているのかもしれないと彼は思っていた。
ある日、職場の同僚に誘われて料理教室に参加することになった。
普段なら断るところだが、その日のテーマが「卵料理」だと聞いて興味を持ったのだ。
教室に入ると、そこには年齢も性別もさまざまな参加者が集まっていた。
少し緊張しながら席に着いた陽一の前に現れたのは、講師の石田真希という女性だった。
彼女は明るく笑顔が印象的で、教室を一気に和ませる空気を持っていた。
「目玉焼き一つで人生が変わるかもしれませんよ。」
真希が冗談交じりにそう言ったとき、陽一は思わず微笑んだ。
それは自分の中で秘かに感じていた想いとどこか重なっていたからだ。
授業では、目玉焼きをさらに美味しく作るためのいくつかのコツが紹介された。
少量の水をフライパンに加え、蓋をすることで蒸し焼きにする方法や、仕上げにバターを一欠けら入れて香りを足すやり方など、どれも陽一にとって新鮮だった。
授業の最後に自分で焼いた目玉焼きを試食しながら、陽一は思わず「これが人生最高の目玉焼きだ」と呟いた。
その言葉に、真希がクスッと笑いながら、「目玉焼きでそんなに幸せそうな顔をする人、初めて見ました」と返した。
それ以来、陽一は料理教室に通い続けた。
卵料理のバリエーションを学びながらも、やはり彼の一番の関心は目玉焼きだった。
授業後には真希と雑談する時間も増え、次第に彼女との距離が縮まっていった。
ある朝、陽一は自宅のキッチンで目玉焼きを焼いていた。
ふと真希のことを思い出し、「この目玉焼きを一緒に食べられたらどんなに楽しいだろう」と考えた。
その思いが胸に溢れ、彼は次の料理教室の後に真希を誘うことを決意した。
授業後、陽一は少し緊張しながら真希に声をかけた。
「今度、僕の家で特別な目玉焼きを作ります。
もし良かったら食べに来ませんか?」彼女は驚いたように目を見開いた後、優しく微笑み、「ぜひ食べてみたいです」と答えた。
その瞬間、陽一は自分の中に温かな何かが広がるのを感じた。
その日から、二人は何度も一緒に料理をするようになった。
真希が提案した「アボカドと目玉焼きのトースト」や「スパイスを効かせたエスニック風目玉焼き」など、新しいアレンジを試しながら、二人の時間はどんどん特別なものになっていった。
そしてある日、陽一は目玉焼きを使ったプロポーズを思いついた。
彼はトーストの上に焼いた目玉焼きを乗せ、その横にケチャップで「Will you marry me?」と書いた。
緊張しながらそれを真希の前に差し出すと、彼女は一瞬驚き、その後涙を浮かべて笑顔で「はい」と答えた。
こうして陽一は、目玉焼きを愛する気持ちから人生の伴侶を見つけた。
それからの二人の家には、いつも香ばしい目玉焼きの香りが漂っていた。
陽一にとって目玉焼きは単なる料理以上のものだった。
それは人生を変える魔法そのものだったのだ。