霧の中の囁き

ホラー

深夜の電車は、まるで亡霊のように静かだった。
乗客もほとんどいなく、鈍い明かりだけがぼんやりと車内を照らしていた。
乗っていたのは、仕事帰りのサラリーマンの田中一郎と、若い女性の佐藤美奈子の二人だけだった。

田中は窓の外を見ていたが、霧が濃くて何も見えなかった。
普段はこの時間帯には少しでも疲れを癒そうと眠りにつくのだが、その夜はなぜか眠れなかった。
不安な予感が心をよぎった。

電車がとある無人駅に止まった。
ここは田中の降りる駅ではないが、なぜか田中はふと降りる衝動に駆られた。
「この駅に何かあるのかもしれない」と、頭の片隅で誰かが囁いたような気がした。
振り返ると、美奈子も同じように不安そうな顔で降りる準備をしていた。

二人は言葉を交わさずに、同時に電車から降りた。
駅のホームは霧に包まれており、薄暗く、どこか不気味だった。
電車が去った後、霧の中に立ち尽くす二人の姿だけが残された。

「ここは一体…」と田中がつぶやくと、突然、美奈子が叫んだ。
「誰かいる!」田中はその声に驚き、辺りを見回した。
確かに、霧の向こうから誰かが近づいてくる音が聞こえた。
足音が徐々に大きくなる。

「逃げよう!」田中は美奈子の手を引いて駅の外へと急いだ。
しかし、霧が深すぎて方向感覚を失ってしまった。
どちらに行けばいいのか分からず、無闇に走り続けた。

ふと、目の前に古びたトンネルが現れた。
躊躇する暇もなく、二人はその中に飛び込んだ。
トンネルの中は真っ暗で、手探りで進むしかなかった。
心臓の鼓動が耳に響く。

「田中さん…」美奈子の声が震えている。
「ここ、なんだかおかしいです。まるで誰かに見られているような気がします。」
田中も同じ感じを受けていた。
闇の中から不気味な視線を感じた。

突然、遠くから低い囁き声が聞こえてきた。
それは人間の声ではなく、まるで地獄からの呼び声のようだった。
囁き声が近づくにつれて、田中と美奈子は恐怖に凍りついた。

「ここから出なきゃ…」田中は美奈子の手を強く握りしめた。
しかし、進むべき方向が分からない。
闇の中で迷子になってしまった二人は、恐怖と絶望に包まれた。

すると、突然、背後から冷たい風が吹き付けた。
その風はまるで生き物のように二人を包み込み、どこかへと引きずり込もうとする力を感じた。
田中は必死に抵抗したが、その力はどんどん強くなっていった。

「お願い、助けて!」美奈子が泣き叫ぶ。
田中も何とかして彼女を助けようとしたが、足が動かない。
まるで見えない手に掴まれているようだった。

その時、不意に霧が晴れ、光が差し込んだ。目の前には駅のホームが見えた。
二人は全力でその光に向かって走った。
ようやく駅に戻った時、電車の音が遠くから聞こえてきた。
霧の中から現れた電車に飛び乗り、二人は命からがら逃げ出した。

車内でようやく一息ついた二人は、顔を見合わせた。
「一体、何だったんだろう…」田中が呟くと、美奈子も首を振った。
「分からない。でも、もう二度とあの駅には降りないわ。」

電車は再び静寂に包まれ、二人はその後の会話も交わさず、ただひたすら次の駅までの時間を耐えた。
背後に残した闇と囁き声が、二度と彼らの前に現れないことを祈りながら。