鏡の奥の家族

ホラー

春の終わり、大学の新生活にも慣れ始めた頃。
沙耶(さや)は、古びたワンルームマンションに引っ越した。
安さと駅近が決め手だったが、内見のとき、やけに大きな姿見が壁に固定されているのが気になった。

「これは前の住人が置いていったものですが、外そうとすると壁が崩れるかもしれないので……」

不動産会社の説明に、不安を感じつつも沙耶は頷いた。

引っ越し初日の夜。
疲れてベッドに倒れ込み、うつろな目で姿見を見つめていたときだった。
ふいに、鏡の中の自分が笑った。

「……え?」

現実の自分は無表情のままなのに、鏡の中の沙耶が微笑んでいた。
すぐに目をこすり、鏡を見直すと、そこには普段どおりの自分が映っているだけだった。

「疲れてるのかな」

その日は気にせず眠った。
だが、それからというもの、鏡の中の自分が、時折“ズレる”ようになった。
目の動きが遅れたり、口が勝手に開いたり、背後に誰かが立っているように見えたり。

ある晩、鏡の前を通り過ぎようとしたとき、映る自分の影が――手招きをしていた。

「やめてよ……」

怖くなった沙耶は、鏡に布をかけた。
だが、翌朝には布が剥がされており、鏡の中に見知らぬ“家族”が映っていた。

老いた父親、無表情の母親、そして小さな女の子。
どこか沙耶に似た顔立ちだった。

「……誰? 誰なの?」

その日から、鏡の中の「家族」は毎晩現れた。
父親は無言でじっとこちらを睨み、母親は微笑み、小さな女の子は楽しそうに手を振る。

ある晩、耐えきれず沙耶は鏡に向かって叫んだ。

「やめて! 出てこないで!」

だが、返事はなかった。
その代わり、鏡の中の沙耶が唇を動かした。

「こっちに来て」

次の朝、大学の友人から連絡があった。

「ねえ、昨日、夜中に電話かけてきた?」

「……え? かけてないよ」

「だって、出たらさ……女の子の声で、“さや、こっちに来たよ”って……」

友人の言葉に凍りつく。
あの女の子――鏡の中の、あれか?

怖くなった沙耶は、鏡を壊そうとハンマーを持ち出した。
だが、鏡に近づいた瞬間、全身が動かなくなった。
鏡の中の“沙耶”が、こちらに向かって笑っている。
目が、何かを確信したように輝いていた。

「やっと入れ替われる」

その瞬間、視界が暗転した。

──目を開けると、自分は鏡の中にいた。
動けず、声も出せず、ただガラス越しに外を見つめるしかなかった。

外では、「沙耶」がベッドに腰をかけ、スマホをいじっている。

にこりと笑い、彼女はこちらを見た。

「ありがとう。これで家族と一緒にいられる」

背後には、あの家族が――“もう一人の沙耶”の家族が、嬉しそうにこちらを見ていた。

そして、鏡の表面に新しい布がかけられる。
視界が完全に閉ざされる前、沙耶は最後の力で叫んだ。

「誰か……助けて……!」

だが、その声が届くことは、永遠になかった。