あんドーナツの午後

食べ物

商店街のはずれに、小さなベーカリーがある。
「パン工房たんぽぽ」。
派手な看板もないその店に、昼過ぎになると必ず現れる男がいた。
名を北村誠二(きたむら・せいじ)、六十五歳。
定年後、妻と二人で穏やかな日々を送る、少し無口な男である。

彼がいつも注文するのは、決まって「あんドーナツ」一個と、ブラックコーヒー。

「毎度どうもです。今日も、あんドーナツ一つですね」

若い店員の声に、北村は小さくうなずくと、カウンター脇の二人掛けの席に腰をおろす。
窓の外では子どもたちがソフトクリームを頬ばり、主婦たちが談笑しながら行き交っている。

あんドーナツを食べるその時間が、北村にとっては特別だった。

——実は、あんドーナツには思い出があった。

半世紀ほど前、まだ誠二が大学生だった頃、同じゼミにいた女性がいた。
朗らかで、目が合うといつも笑っていた。
名前は美和。
彼女は毎朝、大学近くのパン屋であんドーナツを買い、講義の合間に食べていた。

「どうして、あんドーナツなの?」と誠二が尋ねたとき、美和は笑って答えた。

「小さいころ、母が毎週水曜に買ってきてくれたの。これを食べると、なんだか安心するのよ」

誠二はそのとき、初めてあんドーナツを口にした。
甘くて、でもどこか懐かしい味がして、胸の奥がふわっと温かくなったのを覚えている。

やがて二人は恋人になり、卒業後に結婚した。
家庭を持ち、子どもが生まれ、忙しい日々の中でも、水曜には必ずあんドーナツを二つ買ってきた。
「今日はドーナツの日だよ」と言うと、美和はにっこり笑った。

しかし五年前、美和は病に倒れ、帰らぬ人となった。

その日から、誠二は一人で水曜の午後にあんドーナツを買いに行くようになった。
今では毎週水曜だけでなく、気持ちが沈んだ日や、なんとなく会いたくなった日も。

パン工房たんぽぽのあんドーナツは、サクッとした揚げ具合に、ほどよい甘さのこしあんが詰まっている。
甘すぎず、油っこくもなく、美和が好んでいた味にどこか似ていた。

ある日、店の若い女性店員が言った。

「北村さんって、本当にあんドーナツが好きなんですね。こんなに毎週買いに来てくださる方、他にいませんよ」

誠二はちょっと照れたように笑って、言った。

「好きな人が、好きだったんです」

女性店員は一瞬、きょとんとしたが、すぐにふっと微笑んだ。
「それって、すごく素敵ですね」と。

店を出た北村は、通りをゆっくり歩きながらドーナツをひとくちかじった。
風が頬をなで、どこからか金木犀の香りが漂ってきた。

今日のドーナツも、変わらず美味しかった。

その甘さの中に、懐かしさと、やさしさと、そして少しの寂しさが混ざっていた。

でも、それでいいと思う。

甘いものは、時に人を癒す。
そして、過去を優しく包み込んでくれる。

北村誠二の午後は、今日もまた、あんドーナツとともに静かに流れていく。