「今日も完璧だ」
そう呟いて、佐藤律子はまな板の上のキャベツを見下ろした。
薄く、均一に、風に舞うようにふんわりと削がれたその千切りは、もはや芸術だった。
包丁の軌道をなぞるように、まるで音楽を奏でるかのように彼女はキャベツを刻む。
律子は五十歳を過ぎた独身の女性だ。
都内の出版社で校閲の仕事をしていたが、五年前に早期退職し、今は自宅でフリーランスとして細々と原稿を読む生活をしている。そんな彼女の朝は、キャベツの千切りから始まる。
きっかけは、四十代半ばに受けた健康診断だった。
医師に「血糖値が高いですね」と言われ、食生活の見直しを促された。
運動も苦手、甘いものもやめられない。そんな中で、唯一楽しめたのがキャベツだった。
シャキシャキとした歯ごたえ、淡い甘み、そして何より、包丁で細く細く刻むその行為に、律子は深い癒しを覚えた。
「キャベツってさ、削れば削るほど自分が透明になってく気がするのよね」
律子はそう言って笑うが、誰に話しても理解されなかった。
友人たちはヨガや登山、海外旅行に夢中で、千切りの話など笑い飛ばされて終わる。
だから、彼女はこっそりSNSを始めた。
名も顔も出さず、「千切り律子」というアカウントで、日々の千切りをアップする。
動画には包丁の音と、キャベツのリズムだけ。
BGMも字幕もない。
それなのに、なぜかフォロワーがじわじわと増えていった。
「この音、最高に落ち着きます」「おばあちゃんが作ってくれた千切り思い出しました」「プロの包丁さばき!」
コメントに励まされ、律子は毎朝投稿を続けた。
季節によって切り方を変えたり、水にさらす時間を調整したり、時には産地を変えて違いを検証したり。
まるで研究者のようにキャベツと向き合い、律子の朝はますます豊かになっていった。
そんなある日、一通のメールが届く。
──テレビ番組からの出演依頼だった。
「キャベツの千切りを極めた女性として紹介させていただけませんか?」
最初は断ろうと思った。
だが、何度もやりとりを重ねるうちに、取材スタッフの真剣な様子に心が動いた。
そして、ついに律子はテレビに出ることを決めた。
撮影の日。
リビングに設置されたカメラ、照明、マイク。
いつものキッチンが、まるで別世界になっていた。
スタッフは黙って彼女の手元を見守る。
律子は緊張しながらも、いつものように息を吸い、ゆっくりとキャベツに刃を入れた。
トントントン。
音が響く。
包丁の重み、キャベツの張り。
集中するほど、周囲の空気が澄んでゆく。
「まるで呼吸してるみたいですね」と、カメラマンがぽつりと呟いた。
放送後、律子のフォロワーは一気に三万人を超えた。
インタビューやイベントの依頼も舞い込むようになったが、彼女は相変わらず、朝だけは静かにキャベツを刻む。
「私はね、有名になりたいんじゃないの。ただ、この音と、手の感覚と、細くなっていくあの瞬間が、たまらなく好きなだけ」
晴れた朝、キッチンに射し込む光の中、律子は今日もキャベツを削る。
その姿は、何かを削ぎ落としながら、何かを積み重ねているようでもあった。
千切りとは、彼女にとって日常であり、祈りであり、静かな喜びだった。
──トントントン。
今日も、心地よい音がキッチンに満ちていく。