小さなアパートの一室に、咲良(さくら)は住んでいた。
部屋の隅には、やや色あせた茶色いくまのぬいぐるみが、ちょこんと座っている。
名前は「コロン」。
高校生のころ、祖母が誕生日に贈ってくれたものだった。
「もう大人なのに、ぬいぐるみなんて……」
そう思うこともあった。
でも、引っ越すたび、旅に出るたび、コロンはいつも咲良のそばにいた。
触ると、ほんのりと祖母の家の懐かしい香りがした。
春のある日、咲良は新しい職場で、初めての歓迎会に呼ばれた。
まだ慣れない人たちとの距離感に、咲良はどこか落ち着かず、乾いた笑顔ばかり浮かべていた。
「ちゃんとしなきゃ。しっかりしなきゃ」
そう自分に言い聞かせるほど、心はぎゅうっと縮んでいく。
帰り道、駅まで歩く途中で、ふと夜空を見上げた。
冷たい星たちが瞬いている。
その瞬間、咲良は胸の奥にポツンと穴があいているような気がした。
アパートに戻ると、部屋の空気はしんと静まりかえっていた。
何気なくコロンを抱き上げ、ぎゅっと胸に抱きしめる。
コロンは何も言わない。
ただそこにいて、咲良を受け止める。
「今日、がんばったよ」
小さくつぶやくと、不思議と目の奥が熱くなった。
咲良には、小さいころから一つの秘密があった。
つらいことがあると、ぬいぐるみにだけ話しかけるのだ。
友達にも、家族にも言えないことを、こっそりコロンに打ち明ける。
コロンは、驚きも怒りもしない。
ただ、そっとそこにいてくれた。
「今日ね、うまく笑えなかったんだ」
「みんなと話すの、少し怖かったんだ」
そう話しかけるたび、咲良の心はすうっと軽くなった。
誰かに聞いてもらえるだけで、救われることがある。
たとえ相手が、喋れないくまのぬいぐるみでも。
春の風が少しずつ暖かくなるころ、咲良に転機が訪れた。
ある日、職場の昼休みに、後輩の女の子がそっと声をかけてきた。
「咲良さんって、やさしいですね。…ちょっと話、聞いてもらえますか?」
聞けば、彼女も新しい環境に馴染めず、悩んでいるという。
咲良は、ゆっくりとうなずいた。
「わたしもね、同じだったよ」
「最初は、すごく怖かった。笑うのも、話すのも、全部」
そう言いながら、自分でも驚いた。
誰かにこんなふうに打ち明けるのは、初めてだったから。
後輩の女の子は、少しだけ涙ぐみながら笑った。
そして、ぽつりぽつりと、自分の不安や迷いを話しはじめた。
咲良は、それをただ聞いた。
何も否定せず、急かさず、コロンに話しかけるときのように、
その子の言葉を全部、受けとめた。
それが、その日から小さな変化を呼んだ。
咲良も後輩も、少しずつ職場に馴染んでいった。
気づけば、咲良には話しかけてくれる同僚も増え、
以前よりもずっと自然に笑えるようになっていた。
夜、部屋に戻ると、コロンが静かに待っている。
咲良はコロンを抱きしめて、そっとささやいた。
「今日ね、人とちゃんと話せたよ」
「少しだけ、あのころの自分を越えられた気がする」
コロンは、変わらずに優しい顔をしていた。
その毛並みは少し古びているけれど、
咲良にとっては、世界で一番大切な宝物だった。
春の光が、窓からふわりと差し込む。
咲良はコロンを胸に抱きながら、そっと目を閉じた。
胸の奥に、小さな灯りがともった気がした。
「これからも、そばにいてね」
コロンは、静かに咲良の願いを受け止めた。
変わらない優しさで、ずっと、ずっと。