朝、陽が差し込む台所で、千代はゆっくりとグラスにお酢を注いだ。
リンゴ酢に蜂蜜をひとさじ。
それをぬるま湯で割るのが、彼女の日課だった。
かれこれ十年以上、毎朝欠かさず飲み続けている。
理由はただひとつ。
美しくあるためだ。
「肌がつやつや」「血行がよくなる」「代謝が上がる」——雑誌やSNSでそんな言葉を見かけたのがきっかけだった。
最初は半信半疑だったが、三ヶ月も経つ頃には鏡の中の自分がほんの少しだけ明るく見えた。
それが嬉しくて、やめられなくなった。
千代は現在三十七歳。
外見はどう見ても二十代後半にしか見えない。
色白で、頬はうっすらと桜色、髪の艶も若いころと変わらない。
職場では「美魔女」と噂されるが、それが彼女の密かな誇りだった。
「千代さんって、何か特別なことしてるんですか?」
後輩の彩菜に聞かれると、彼女は少しだけ笑って答える。
「特別なんてことないけど…お酢を毎日飲んでるかな」
「えっ、お酢ですか?それだけでそんなにきれいに?」
「それだけ、ってわけじゃないけどね。体が喜ぶものを選ぶようにはしてるかな」
そう言っておきながら、千代の冷蔵庫の中には、十種類以上の酢が並んでいる。
黒酢、バルサミコ酢、柿酢、米酢…。
産地や製法にまでこだわり、まるでワインのように酢を“テイスティング”する日もあるほどだ。
ある日、いつもの道を歩いていると、小さな古道具屋の前で足が止まった。
ふと、琥珀色に輝く瓶が目に入る。
「それ、気になるのかい?」
店主の老婆が言った。
瓶にはラベルがなく、ただの酢のようにも見えたが、不思議と目が離せなかった。
「これは“美酢(びす)”って呼ばれてるんだよ。古くから伝わる特別な酢さね。若さと美しさを保つ力があるって言われてる」
その言葉に、千代の胸が高鳴った。
「いくらですか?」
「ふふ、これは値段じゃないのさ。あなたが“本当に望んでるもの”があるなら、持っていっていいよ」
そうして千代は、琥珀の瓶を手に家に帰った。
それ以来、彼女の美しさはさらに磨かれていった。
肌は透き通るように白くなり、髪は黒曜石のような艶を持ち、見る者すべてが息を呑むほどになった。
だが、その美しさには奇妙な副作用もあった。
ある夜、鏡に映った自分の顔を見て、千代はふと気づく。
感情がない。
喜怒哀楽、表情は動くのに、心が動いていないのだ。
まるで仮面をかぶっているような、自分という存在の“温度”が失われていくような…。
そしてもう一つ、恐ろしい事実が判明した。
身体が老化していない。
ふとしたことで病院の検査を受けたとき、医師が顔を曇らせた。
「…千代さん、あなた、細胞の老化がほとんど見られません。まるで時が止まってるようだ…」
最初は歓喜した。
永遠の若さ。
それこそ彼女が望んでいたもの。
しかし、月日が流れるにつれ、周囲の人間は年を取り、いなくなっていった。
彩菜は結婚し、子どもを持ち、しわの増えた手で孫を抱いている。
千代は今も、二十代のままだ。
いつしか人と会うことを避けるようになった。
美しさは孤独を呼び、美貌は仮面となり、彼女を閉じ込めていった。
ある夜、例の琥珀の瓶を棚の奥から取り出す。
瓶の中には、あと少しだけ“美酢”が残っていた。
「…これを飲み続ければ、永遠にこのまま。だけど、私の人生は進まない」
千代は迷った。
だが、やがて瓶のふたを開け、ベランダの鉢植えにそっと注いだ。
翌朝、千代は初めて、鏡の前で泣いた。
頬にしわが一筋。
瞼に影が落ちていた。
それでも、彼女の瞳は生き生きと輝いていた。
感情が戻ってきたのだ。
その日から千代は、リンゴ酢と蜂蜜だけを飲みながら、日々を生きるようになった。
ゆっくりと老い、ゆっくりと笑い、そして時には涙を流しながら。
美とは、形ではなく、生きる熱のことだと、彼女はようやく知ったのだった。