陽菜(ひな)は小さな柴犬の「こむぎ」を迎えたときから、いつかこの子が大人になっていくことを実感していた。
こむぎは無邪気に家じゅうを駆け回り、陽菜のあとをぴょこぴょことついてくる。
そんな様子に目を細めながらも、ふと寂しさがよぎることもあった。
ある日、こむぎがガジガジとお気に入りの木製おもちゃを噛んでいると、床に小さな白いものが転がった。
陽菜が拾い上げると、それはこむぎの乳歯だった。
「わあ……!」
思わず感嘆の声を漏らしながら、陽菜は小さな歯を掌に乗せた。
それは驚くほど小さく、まるで砂粒のように軽い。
しかし、それは間違いなくこむぎの成長の証だった。
幼い頃、陽菜は母に「人間の乳歯は屋根の上に投げると、丈夫な歯が生えてくる」と教わった。
でも、犬の乳歯はどうすればいいのだろう?
陽菜は悩んだ末、小さなガラス瓶を用意して、こむぎの乳歯をそこにしまった。
「大切な宝物みたいだな」と思いながら、それからというもの、こむぎの乳歯が抜けるたびに瓶へと入れていった。
こむぎの成長はあっという間だった。
乳歯が永久歯に変わり、いつの間にか幼さの残る顔つきも、少しずつ凛々しくなっていく。
その変化に喜びつつも、陽菜の心には一抹の寂しさもあった。
こむぎが一歳を迎えたころ、陽菜は仕事の都合で一人暮らしをすることになった。
両親にこむぎを預けることになり、初めてこむぎと離れる日が近づくにつれ、胸が締めつけられるような思いが募った。
引っ越しの準備を進めながら、ふと机の上のガラス瓶が目に入る。
中には、陽菜が大切に集めたこむぎの乳歯がいくつも収まっていた。
瓶を手に取りながら、陽菜はこむぎをぎゅっと抱きしめた。
「大きくなったね、こむぎ」
こむぎは嬉しそうに尻尾を振る。
幼かったあの頃と変わらず、陽菜の手をぺろりと舐めた。
別れの日、陽菜はこむぎを両親に預けた後、そっとバッグの中を探り、ガラス瓶を取り出した。
そして、一粒の乳歯を手に握りしめる。
これがあれば、離れていてもこむぎと繋がっていられる気がした。
新しい生活が始まってからも、陽菜は時折、そっと乳歯を眺めた。
小さな白い歯は、あの温もりや無邪気な日々を思い出させてくれる。
こむぎは遠くにいても、陽菜の心の中ではいつもそばにいた。
数ヶ月後、陽菜が久しぶりに実家へ帰ると、大きく成長したこむぎが尻尾をちぎれんばかりに振って駆け寄ってきた。
その姿に、陽菜の胸は温かく満たされた。
陽菜はこむぎの頭を撫でながら、そっとつぶやいた。
「これからも、ずっと一緒だよ」
こむぎは陽菜の言葉に応えるように、元気よく吠えた。
その声は、まるで「もちろん!」と言っているかのようだった。