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一羽の余韻

朝五時。まだ陽も昇りきらない薄明のキッチンに、小さな音が響く。水を満たした大鍋に鶏ガラを入れる音だ。続けて、ネギの青い部分、生姜の皮、少量の酒が鍋に投入される。「今日もいい香りが出るかな」三浦幹夫(みきお)、六十七歳。定年退職後に始めた“趣...
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風の色はミントグリーン

夏が近づくと、風の中に微かにミントの香りが混じる。それは彼女の記憶と結びついていた。佐倉遥(さくら・はるか)は都会の喧騒に疲れ、郊外の小さな街に引っ越してきた。職場はリモート勤務に切り替わり、必要最低限の人との関わりだけで済む。心をすり減ら...
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黒糖日和

陽が落ちかけた午後、古い商店街の角にひっそりと佇む和菓子屋「くるみ堂」には、今日もひとりの男が足を運んだ。彼の名は水野誠(みずの まこと)、五十五歳。勤めていた出版社を早期退職してから、毎日のようにこの店に立ち寄るようになった。目的はただひ...
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風にゆれるポピーの庭

春の終わり、風が柔らかく頬をなでる頃になると、町外れの古い洋館の庭には、一面に赤いポピーの花が咲き乱れる。洋館に住むのは、七十を過ぎた女性・和子だった。和子は毎年、庭のポピーが咲くのを誰よりも楽しみにしていた。朝起きてすぐ、まだ露をまとった...
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ナポリタンの午後

小さな喫茶店「ルミエール」は、昭和の香りを色濃く残す一軒だった。木目のテーブル、革張りの椅子、レトロなペンダントライト。そして何より、この店には「絶品ナポリタン」があるという噂があった。三浦圭太(みうらけいた)、三十四歳。仕事は都内の小さな...
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電車の窓から世界を

佐伯拓海(さえきたくみ)は、子どものころから電車に乗るのが好きだった。特に目的地がなくても、ただ電車に揺られている時間が好きだった。家族旅行で乗った特急のふかふかの座席、高校時代に通学で使った満員の各駅停車、大学の夏休みに一人で乗った鈍行列...
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くまのアトリエ

部屋の窓辺に、小さなアトリエがある。針と糸、色とりどりの布、そして壁一面に並んだぬいぐるみたち。そこは、山口春(やまぐちはる)という女性の特別な場所だった。春は三十二歳。会社勤めをしていた頃もあったが、今は自宅でぬいぐるみ作家として暮らして...
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柱の音を聴く男

幼い頃、健太は父の大工仕事を手伝うのが好きだった。トントンと木槌を打つ音、削られていく木の香り、柱が組み上がるたびに大人たちが交わす「よし!」という掛け声。あの音と匂いと空気が、健太の心に深く刻まれていた。しかし健太が中学に上がる頃、父の工...
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ソースの香り

広島市内の路地裏に、ひっそりと佇むお好み焼き屋「こいのぼり」がある。木造の店構えに、のれんが揺れ、近づけば香ばしいソースと鉄板の音が鼻をくすぐる。そこには、店主の八重(やえ)という女性が一人で店を切り盛りしていた。八重は、若い頃にこの店を父...
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白いナスと願いの種

山あいの小さな村に、「白いナス」が育つ畑があった。栽培しているのは、七十を越えた農家の女性・ふさこ。ふさこが育てるナスは、まるで雪のように白く、つややかで、見た目はまるで野菜とは思えないほど美しかった。白いナスには、ある言い伝えがあった。「...