不思議

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昨日を持たないアパート

古い三階建てのアパートには、不思議な決まりごとがあった。住人は誰一人として、「昨日のこと」を覚えていない。朝になると、廊下ですれ違う住人たちは必ず同じ会話を交わす。「はじめまして」「ええ、こちらこそ」名刺を渡す者もいれば、照れたように会釈す...
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存在しない昨日

町の図書館には、貸し出しも返却もされない棚が一列だけあった。背表紙には日付が書かれているが、どれも「昨日」とだけ記されている。正確な年月日はなく、昨日という言葉だけが何百冊も並んでいた。私はそこで働いて三年になるが、その棚について説明を受け...
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観測されなかった私

私は、誰にも観測されなかった。正確に言えば、存在していなかったわけではない。ただ、誰の視線にも、記録にも、測定器にも引っかからなかっただけだ。世界は観測されたものだけを「在る」と認める。名前、座標、体温、反応。どれか一つでも欠ければ、その存...
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ポストに届く、まだ来ない今日へ

毎朝七時、目覚まし時計よりも少し早く、私はポストの音で目を覚ます。カタン、という控えめな金属音。それは決して郵便配達の時間ではない。最初に気づいたのは、三月の終わりだった。ポストを開けると、白い封筒が一通入っていた。差出人も住所もない。表に...
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三時十五分で止まるカフェ

わたしがそのカフェを見つけたのは、人生でいちばん急いでいた日のことだった。締め切り、将来、不安、全部が一度に押し寄せて、足早に歩いていた路地の奥で、古びた木の扉が目に留まった。看板には小さく「カフェ・クロノス」と書かれている。中に入ると、静...
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呼ばれることで、透明にならない

名前を失うと、人は少しずつ透明になっていく世界がある。最初は指先からだ。光が指の輪郭をすり抜け、影が薄くなる。次に耳、肩、膝。最後に残るのは、胸の奥にしまわれた温度だけだと、人々は言った。この町では、生まれたときに与えられる名前を「錨」と呼...
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一日一文字、忘れていく

その日記帳は、最初から少しおかしかった。表紙は無地で、いつ買ったのかも覚えていない。けれど、机の引き出しを開けたとき、そこにあるのが自然に思えたから、私は何も考えずに使い始めた。一日目。「今日は新しい日記を書き始めた。特別なことはなかったけ...
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夢の修理屋

夜と朝のあいだにある細い路地を、だれも知らないときだけ開く扉がある。古い歯車の看板には、消えかけた金色の文字でこう書かれていた――「夢の修理屋」。気づけば、春斗はその前に立っていた。眠っていたはずなのに、足元には石畳のひんやりとした感触があ...
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真夜中だけの終着駅

真夜中、町の灯りがすっかり消えた頃、線路の向こうから低い風のような音が近づいてくる。ダイヤには載っていない電車――“真夜中の電車”は、もう誰も使わなくなった駅にだけ止まる、不思議な列車だった。桐生灯里は、その噂を子どもの頃から聞いていた。廃...
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雨にだけ現れる人たち

放課後、校門を出た瞬間、空が泣き出した。大きな雨粒がアスファルトを叩き、世界の輪郭を少しずつ溶かしていく。傘を忘れたことに気づいた私は、しばらく軒下で雨宿りをするつもりだった。けれど、その時――人の流れの中に、おかしな存在が混じっているのに...