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桃のやさしさ

朝露がまだ残る夏の早朝、佐々木杏はいつものように、小さなキッチンで桃の皮を丁寧にむいていた。包丁を入れた瞬間に広がる甘い香りは、杏にとって一日の始まりを告げる合図だった。杏は静かな町の片隅で「こもれび喫茶」という小さなカフェを営んでいる。都...
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緑の香り、夏の記憶

ライムの香りがすると、沙季は小さく笑う。それは夏の記憶と結びついている。じりじりと照る太陽と、海辺の風と、氷が弾ける音。彼女の人生において、ライムはただの果物ではなかった。沙季がライムに出会ったのは、小学六年生の夏休み。母親に連れられて訪れ...
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炭火のぬくもり

東京の下町、商店街のはずれに、ぽつんと赤ちょうちんが灯る焼き鳥屋「とりよし」がある。暖簾をくぐると、炭火の香りと、じゅうじゅうと肉が焼ける音が出迎えてくれる。カウンターだけの小さな店を営んでいるのは、五十代の店主・吉田誠(よしだまこと)だ。...
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春雨色の約束

ソウルのはずれ、小さな路地裏にひっそりと佇む食堂がある。店の名前は「ハルモニの味」。古びた木の看板に手書きの文字が味わい深く、通りがかる人が思わず立ち止まってしまうような、そんな温もりを感じさせる佇まいだ。この店の看板料理は、チャプチェ——...
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塩と火と、鮭の香り

「鮭の塩焼きって、なんであんなに幸せな気持ちになるんだろうね」そう言いながら、湯気の立つ朝の食卓で箸を進めるのは、佐藤良太(さとう・りょうた)、三十五歳。地方の中小企業で経理をしている、ごく普通の独身男性だ。朝は白米に味噌汁、そして鮭の塩焼...
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レモンの木の下で

高校二年の春、陽太は初めて一人でレモンをまるごと一個かじった。酸っぱさで目の奥がジーンと痛み、しばらく口がきけなかった。だがその一撃が、まるで人生を変えるような衝撃だった。――これだ。それまで何に対しても無気力だった陽太は、レモンをかじった...
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ひと缶のやさしさ

夏の終わり、商店街のはずれにある古びた食料品店「まるや商店」では、毎年恒例の“在庫一掃セール”が始まっていた。棚の奥から引っ張り出された商品の中に、ひときわ目立つオレンジ色の缶詰があった。金色のふたに、レトロな字体で「特選みかん」と書かれた...
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白いスプーンの約束

冷蔵庫を開けるたび、結月(ゆづき)は無意識に生クリームの容器を探してしまう。小さなプラスチックのカップ、ふたを開けると、雪のようにふわりと盛り上がった白い山。スプーンですくえば、しゅわん、と音がするような気がして、口に含めば静かに消えていく...
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夏の丸い記憶

「今年も、来たなあ」六月の終わり、商店街の八百屋「山下青果」の店頭にスイカが並びはじめたとき、望(のぞみ)は心の中でそう呟いた。スイカが出始めると、夏が本当に来た気がする。汗ばむシャツと、昼間のセミの声と、縁側でかじったあの甘さと。スイカは...
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白き菜に、春を待つ

冬の終わり、東京の片隅にひっそりと佇む八百屋「まつ乃屋」の店先に、今年も瑞々しい白菜が並び始めた。「うん、この巻き方、最高だねえ……!」小柄な女性がその場にしゃがみ込み、ひとつひとつの白菜をじっくりと撫でるように見つめている。彼女の名は井坂...