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グラスに注がれた二つの時間

古い港町の坂の途中に、看板も目立たない小さな酒屋があった。木の扉を開けると、ほの暗い店内に静かな時間が流れ、棚には色とりどりの瓶が並んでいる。その中央の棚に、いつも並んで置かれている二本のワインがあった。深い紅をたたえた赤ワインと、淡い金色...
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掌の庭 ― 手の記憶をやさしく包む店 ―

冬のはじまり、古い商店街の裏通りに「掌(てのひら)の庭」という小さなハンドクリーム専門店があった。看板は控えめで、気づかずに通り過ぎてしまう人も多い。それでも扉を開けると、ほのかに甘く、どこか懐かしい香りが迎えてくれる。店主のミサキは、毎朝...
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音を選ぶ人

町のはずれに、ひとりで暮らす青年がいた。名をソウタという。彼は、生まれつき「ものすごく耳がいい」人だった。遠くの踏切が下りる前の、金属がわずかに軋む音。雲が流れるときに風が変わる、その境目の気配。人が言葉にする前の、胸の奥で揺れたため息まで...
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溶けるまでの一歩

冬のはじまり、町外れの小さな公園で、一つの雪だるまが生まれた。丸い胴体に少し曲がった鼻、煤で描かれたにこやかな目。名はまだない。けれど、夜明け前の静けさの中で、彼はふと「歩いてみたい」と思った。月が雲に隠れた瞬間、冷たい風が吹き抜ける。雪だ...
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星降る谷のモミの木

深い山の奥、白い雪がしんしんと降り積もる静かな谷に、一本の若いモミの木が立っていた。まだ背は高くなく、枝も細い。それでも冬の星空の下で、凛とした輪郭を保ち、冷たい風にも折れずに揺れていた。この谷の木々には、昔からひとつの言い伝えがあった。「...
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ひだまりを追いかけて

春の風がまだ少し冷たいある朝、佐伯あかりは目を覚ますと、まずカーテンの隙間から差し込む光の色を確かめた。やわらかな金色――その瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。あかりは小さな頃から「太陽のにおい」が好きだった。洗い立ての布団に染み込んだ日差し...
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夕陽にひびくピンポンの音

夕方の体育館には、ピンポン球の軽やかな音が響いていた。「カン、カン、コツン。」その規則的なリズムに耳を澄ませているのは、中学一年生の結城凛。小柄で物静かな彼女は、春から卓球部に入ったものの、まだ一度も公式試合に出たことがなかった。理由は簡単...
動物

月影通りのちいさな探偵猫

月影通りの端に、ひっそりとした古本屋がある。昼でも薄暗い棚の間を、すばやく駆け抜ける影――それが、この店に住みつく灰色の猫、ミルクだった。ミルクはただの飼い猫ではない。この通りで起こる小さな謎を解き明かす、“探偵猫”として知られていた。もっ...
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巡りゆく瓶の旅

そのガラス瓶は、街はずれの小さなカフェで生まれ変わりの時を待っていた。もともとはハーブティーの瓶として世界中を旅し、やっと落ち着いた場所がこのカフェだった。透明な体に、淡い緑のラベル。中身が空になったその日、店主の紗耶は瓶をそっと洗い、リサ...
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アリッサムの小さな風の物語

海に近い丘の上に、ひっそりと佇む古い灯台があった。いまでは灯りをともすこともなく、観光客が時折写真を撮りに来るだけの静かな場所。しかし、その足元には毎年春になると白や薄紫の小さな花が、一面に広がって咲き誇る。その花こそ、アリッサムだった。丘...