夏の日差しが窓から差し込む午後、古道具屋「凪」に一人の男が現れた。
無精ひげを蓄え、やや色褪せたシャツを着たその男の名は高倉悠一。
年齢は四十半ば。
職業は自称・花瓶収集家だった。
「この辺りで、古いガラスの花瓶を扱ってるって聞いてね」
そう言って高倉は店主の文絵に声をかけた。
「ええ、ガラスのなら奥にありますよ。でも……ただの花瓶じゃ満足されないんでしょう?」
文絵はすぐに悟った。
目の前の男が、ただの好事家ではないことを。
高倉が花瓶に執着するようになったのは、妻の沙耶が亡くなった日からだった。
五年前、交通事故で突然命を落とした彼女は、生前、花を飾るのが好きだった。
とくに季節の小さな野の花を、無名のガラス作家の花瓶に挿すことにこだわっていた。
「花は、誰かの気持ちを受け取って咲くもの。花瓶は、その気持ちを守る家みたいなものだと思うの」
その言葉が、今も高倉の胸に残っている。
以来、彼は妻がかつて好んだような花瓶を求めて、全国の骨董市や町の古道具屋を巡るようになった。
まるで記憶の破片を拾い集めるように。
「これは、いつの時代のものだろう?」
高倉は棚の奥にあった、小さな青緑色のガラス瓶に目を留めた。
気泡がわずかに入り、口元がすこし歪んでいる。
手仕事の跡が残るそれは、完璧ではないが、どこか温かみを感じさせた。
「それ、戦前の東北のガラス工房のものだと聞きました。詳しい記録はありませんが、似たものを集めていたお客さんが言っていましたよ。花を挿すと、水がとてもきれいに見えるんですって」
高倉は黙って花瓶を手に取った。
指先でそっと撫でると、まるで誰かの体温が残っているようだった。
「これは、沙耶が持っていたものに似ている……」
ふいに、あの春の日が脳裏に浮かんだ。
リビングの窓辺に、彼女が野のスミレを挿していたあの姿。
小さなため息のように微笑んで、光に透ける花とガラスの重なりを見ていた後ろ姿。
「……いただきます。これを連れて帰らせてください」
文絵は静かにうなずいた。
買い手のほうが、ずっと大切そうにしてくれるとわかったからだ。
その夜、高倉は新しく手に入れた花瓶に、小さな白いカスミソウを挿した。
洗面器で丁寧に水を張り、花瓶に移すと、まるで時が逆戻りしたように、部屋の空気が柔らかくなった。
「沙耶……」
思わずつぶやいたとき、彼の背後で風が窓を鳴らした。
どこか懐かしい香りが、部屋の奥からふわりと漂った。
それからというもの、高倉の部屋にはいくつもの花瓶が並ぶようになった。
彼は収集家というより、記憶の住人になったのかもしれない。
けれどそれは、決して過去に縛られているのではなかった。
花を生けるたびに思う。
花瓶は記憶を閉じ込める器ではなく、時間を通して想いを今に繋ぐ道具なのだと。
だから今日もまた、高倉は街の片隅にある古道具屋を訪れる。
ときに名前のない作家のガラス瓶、ときに欠けのある陶器の壺。
誰かの手を渡ってきた器の中に、沙耶の面影を、そして自分の未来を見つけるために。