港町・潮見町には、ちょっと変わった老舗の洋食屋「マルヤ洋食店」があった。
創業は昭和初期。店主の孫・マコトが三代目として厨房に立っていた。
店の名物は、巨大なエビフライ。
「まるでぬいぐるみみたい!」と子どもたちが喜ぶほどのサイズだった。
ある日の朝。
マコトが市場で仕入れた食材を確認していると、一匹のエビが箱の隅でピチピチと跳ねていた。
他のエビたちはすでに氷の中で静かになっているのに、そいつだけが生き生きしていた。
「おい、元気だなあ。こいつは刺身にでもすっか?」
市場の親父が笑って言う。
だが、マコトはなぜかそのエビを見て、ふとこう言った。
「こいつは……エビフライにしよう。今日の一番だ。」
その日、マコトはそのエビを丁寧に処理し、手間を惜しまず衣をまぶし、低温でじっくりと揚げた。
ジュウ……という油の音とともに、厨房に甘く香ばしい香りが広がる。
揚げ終わったエビフライは、見事だった。
衣はサクサク、中はふっくら。
マコト自身も驚くほどの出来栄えだった。
「これは……まるで、生きてるみたいだ。」
そう呟いたその時、扉が開いた。
「……いらっしゃいませ!」
入ってきたのは、どこか影のある少年だった。
顔色も悪く、目も伏せがち。
母親らしき女性がついていたが、注文もままならない様子。
「エビフライ……食べたい……」
少年がか細い声で言った。
マコトはすぐに「例のエビフライ」を差し出した。
少年は最初はゆっくり、そして次第に夢中になって食べた。
ひとくち、またひとくち。
口の端にソースをつけながら、まるで忘れていた味を思い出すかのように。
「……おいしい……」
それが少年の、初めての笑顔だった。
母親は目を潤ませ、「この子、病気で……食欲がなかったんです。でもエビフライならって……」と静かに言った。
マコトは黙って頷いた。
そしてふと、あのエビのことを思い出す。
「もしかして……このエビ、あの子のために来たのかもしれないな」
その晩、マコトは厨房で独り言をつぶやいた。
「お前、エビフライになりたかったんだろ?」
風が通り抜ける厨房で、誰もいないはずの調理台の上から、小さく「うん」という声が聞こえた気がした。
以来、マルヤ洋食店では、時々とびきり美味しいエビフライが出るようになった。
それは、食欲のない人を元気にし、悲しみに暮れる人に笑顔を与える、ちょっとだけ魔法がかかったようなエビフライだった。
そしてマコトは、そのエビフライを作るたびに、あの箱の隅で跳ねていた一匹のエビのことを思い出す。
「きっとお前、今も誰かのために、エビフライになってるんだよな。」
港の小さな洋食屋で、今日もまたサクッという音が響く。
命の終わりではなく、誰かの希望になるために、エビが黄金色に生まれ変わる。